東京パフォーマンスドール
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東京パフォーマンスドール
別名TPD
出身地
日本東京都渋谷区原宿
ジャンルJ-POP
ポップ
ユーロビート
デステクノ
ハウス
ヒップホップ
活動期間1990年 - 1996年
2013年 - 2021年
レーベルCha-DANCE(Epic/Sony Records
エピックレコードジャパン
事務所キューブ(2013年 - )
共同作業者中村龍史
清水彰彦
公式サイト公式ウェブサイト

メンバーメンバー(1990年?1996年)を参照
メンバー(2013年?2021年)を参照

東京パフォーマンスドール(とうきょうパフォーマンスドール、: Tokyo Performance Doll、略称: TPD[注 1])は、日本ガールズグループ日本初のダンスボーカルアイドルグループ。メンバーやファンの間での愛称はパードル。

第1期TPD(1990年平成2年〉?1996年〈平成8年〉)は、多人数でスタイリッシュに歌って踊る女性アイドルグループのスタイルを、日本の音楽史上において初めて確立した[注 2]。また、ライブハウス原宿RUIDOで定期公演を行って着実にファンを獲得しつつ日本武道館公演や横浜アリーナ公演を成功させるまで上り詰めたことや、国内外の各都市に姉妹グループ(大阪パフォーマンスドール上海パフォーマンスドール)を結成していることから、AKB48グループや、その後にメジャー化して行くライブアイドルのルーツ的な存在であったとも言える[1][2][注 3]。発表した楽曲は当時のディスコマハラジャジュリアナ東京など)やクラブ芝浦GOLDなど)やストリートで掛かるような先進的なダンスミュージックを参考にしており、参考元を完全に洋楽に切り替えたことで昭和歌謡的な従来のアイドル曲からは完全に脱却している。第1期TPDはパフォーマンスと楽曲をスタイリッシュにして格好良さを志向した点で、女性アイドルグループでありながらもアーティスト的な側面を持ち合わせている。但し、21世紀の女性アイドルグループのプロトタイプに留まっており、後年のグループと比較して実験的な部分は多数存在する。

2013年〈平成25年〉、世代交代した新メンバーにより約17年ぶりに復活し、翌年にCDデビューした。

第1期TPDのメンバーやファンは解散後もコミュニティを形成し、SNSで交流したり自主的にリアルイベントを企画したりするなど、往時とは別の形で活動中である。
第1期(1990年?1996年)

おニャン子クラブ解散後に発生したアイドルの時代[3]に結成して活動した女性アイドルグループで、時代のトレンドは格好良さを重視するアーティストに向かっていたため商業的には大きく成功しなかった。しかし、舞台上でのスタイリッシュなパフォーマンスを重視して本格的なダンスを導入し、定期公演を行い、国内外の各都市に姉妹グループを結成した点で、21世紀以降に隆盛を見せる女性アイドルグループの始祖となった[1][2]。始祖とは言え、劇団四季出身の中村龍史の指導による長時間ノンストップでの生歌とパフォーマンスの両立は非常に高度なレベルに到達しており、後世の口パク前提のアイドルグループとは一線を画している。各々のメンバーは、所属レコード会社は同じであるが、所属芸能事務所は異なっていた。第1期のTPDプロジェクトは冬の時代にあったアイドル界の仕切り直しを当初から意識しており、アイデアの源泉はアイドル以外の分野である宝塚歌劇団ソ連ミハイル・ゴルバチョフが実行した『ペレストロイカ』,ストック・エイトキン・ウォーターマンのプロデュース手法など多岐に渡り、それらを1つにまとめ上げて完成した、当時としては革新的な女性アイドルグループである。
来歴
活動時

1990年平成2年)4月、原宿RUIDOを母会場にEPIC・ソニー(現:エピックレコードジャパン)・Fプロジェクトが企画した「ゴルビーズ(GOLBIES)」が起源。後にTPDのメンバーの中心となる3人(木原さとみ川村知沙篠原涼子)によって構成されたこのグループは、主に中村龍史の構想により、当時のソビエト連邦共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフの愛称「ゴルビー」に由来して名付けられ、ゴルバチョフの進めるペレストロイカにちなんで、アイドル冬の時代を迎え音楽番組も激減した芸能界に革命的な衝撃をもたらそうと名づけられた。ゴルビーズは未だ東京パフォーマンスドールが構想中の段階にあって先駆けてデビューし、Epic/Sony Records内に設立されたTPDのプライベートレーベル「Cha-DANCE」からシングルCD2作品をリリースした。並行して、雑誌『DUNK』で「ゲーノーペレストロイカ」というスター発掘オーディション企画がスタートし、派生レーベルのCha-DUNKレーベルから4枚のシングルCD[注 4]がリリースされた。

そして、その後メンバーが次々と増え、プロデュースを依頼された中村龍史により、ノンストップで歌とダンスを繰り広げるライブ「ダンスサミット」を毎週行う7人組集団として「東京パフォーマンスドール」を結成。CDVHSLDなどは前述のCha-DANCEレーベルよりリリースされた。ダンスサミットは原宿RUIDOで開催され、同年6月に第一回公演が行われた。当初はメンバーが竹下通りでビラ配りを行うなど草の根的に宣伝するなどしても観客が数人に留まり、それはメンバーの家族のみということもあったが、口コミで徐々に観客を増やし、次第に公演チケットの争奪戦が行われるようになった。人気音楽番組が軒並み消滅し、残った数少ない音楽番組ではアーティストの出演が優先されたため、アイドルではテレビ出演が難しいという時代背景から必然的にライブハウス中心の活動となったが、このライブハウスを拠点とする活動は、後のライブアイドルに近い活動であった。

ダンス、楽曲、照明、衣装は、EPIC・ソニーのプロジェクトチームによってそれぞれにこだわりのあるものが生み出された。特に初期の楽曲に関しては、古きよき外国のダンス・ミュージックを中心に再構築させることで、新しいイメージを作り上げていった。中村龍史ダンス・ミュージック(特にユーロビート)への拘りにより、最初期は主にユーロビートにアレンジされていた。最初期においてはストック・エイトキン・ウォーターマンプロデュースしたKAKKOの『We Should Be Dancing』という、日本人女性歌手と本場のユーロビートのコラボレーション事例も参考にしている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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