東京オリンピック_(映画)
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この項目では、1964年大会について説明しています。2020大会の記録映画については「東京2020オリンピック (映画)」をご覧ください。
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東京オリンピック
Tokyo Olympiad
記録映画を撮影する車
監督市川崑
渋谷昶子(バレーボール)
安岡章太郎(体操)
細江英公
脚本市川崑
和田夏十
白坂依志夫
谷川俊太郎
製作田口助太郎
製作総指揮市川崑
音楽黛敏郎
撮影宮川一夫
林田重男
中村謹司
田中正
編集江原義夫
配給東宝
公開 1965年3月20日
上映時間169分
製作国 日本
言語日本語
製作費3億5360万円
配給収入12億2321万円
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『東京オリンピック』(とうきょうオリンピック、Tokyo Olympiad)は、1964年東京オリンピック公式記録映画1965年3月20日公開。上映時間169分。市川崑が総監督を務めた。1965年7月10日に大会組織員会が再編集した海外版(英語ナレーション、130分)が東宝洋画系で上映。2004年6月25日に市川崑が再編集したディレクターズ・カット版(147分)がオリジナル版DVDセットに収録。
製作

最初に話を受けたのは映画監督の黒澤明で、開催の4年前からローマオリンピックを下見する等、準備を進めていた。しかし、ニュース映画協会に加盟しているニュース専門会社7社と軋轢を起こすなど、組織員会での内部対立が起こり、黒澤が希望した予算5億2千万円に対して、約半分の2億4千万円しか提示されないことが決定的となって降板した。その後、今井正今村昌平渋谷実新藤兼人ら複数の監督に話が流れ、最終的に市川に話が回ってくる。当時、大映と契約し、勝新太郎初の現代劇である『ど根性物語 銭の踊り』を製作していた市川は、大映社長だった永田雅一から電話連絡を受けて、本作のプロデューサーであった読売新聞社長の田口助太郎と面会、本作の総監督を打診されたが、五輪に関心がなく、スポーツ全般にも疎かった市川は返答を保留し、帰宅後、妻で脚本家だった和田夏十とも相談して、永田に判断を白紙委任する旨を返答した。すると2、3日後に永田から、大映との契約を度外視しても良いので引き受けてくれと電話連絡があり、市川は総監督へ就任する事になった。1964年の4月末に、大映での映画製作を終えた市川は、当時銀座2丁目にあった帽子屋「トラヤ」の2階に間借りしていたオリンピック映画協会の事務所を初めて訪れたが、そこには田口と事務員、会計係の3人しか居らず、10月開催の予定時点で全く何も進んでいない、従来の映画作りより短い期間で製作しなければならない異常な状況だった。「いったいこれから何をすればいいんですか」と尋ねた市川に、田口は「組織委員会の仮承諾を得るために、シナリオを作って欲しい」と要望する[1]

記録映画について予備知識がなく、素人同然の市川だったが、黒澤と対立したニュース専門会社からスタッフを集め、1963年に開催された東京国際スポーツ大会の記録フィルムを鑑賞するなどして、記録映画に関する勉強と人集め、そして組織作りを進めて行った。一方、田口から要望されたシナリオ作りには、和田夏十や脚本家の白坂依志夫、そして、当時映画作りに関心を持っていた詩人の谷川俊太郎が参加した。この時、脚本家の菊島隆三にも参加を打診したが、別件とバッティングしたため不参加に終わった。シナリオに於いて市川は、上映時間を3時間以内に収め、全種目の決勝場面を必ず挿入するということを留意点に、執筆作業を進めた。しかし3時間内に全種目を上映する事はすぐに不可能と判明し、全競技種目をABCの3ランクに分類して、撮影の優先度を選別し、全体の流れを聖火リレーから始めて、選手入場→開会式→2週間の競技実施→閉会式、と大まかな段取りをつけた上で、データ収集と意見集約を行い、シナリオに活かした。また作業を進める内に、競技前後のドラマ性に興味を持ち、競技中以外の場面も率先して撮るよう、アイディアとしてシナリオに取り入れた。さらには、出場選手のみならず、準備スタッフや観客もオリンピックの参加者だと捉え、撮影班を競技班と雑感班に分けて、それぞれの役割を分担させた。そして、自身がスポーツに疎いからこそ、スポーツファンだけの映画にしない事をスタッフ全員に徹底させることとした[2]

スタッフの人選は全て市川が行い、美術顧問に亀倉雄策、監督に小説家の安岡章太郎、写真家の細江英公東松照明などの顔ぶれが集まった。肩書はプロデューサー補であるが、市川と同じ東宝出身のベテラン監督である谷口仟吉も加わっている。これ以外は、映画作りについて主要メンバーが素人同然であるため、客観的な意見が必要と考え、監修として映画評論家の南部圭之助を起用した。また予算に関しては、圧倒的に撮影用のフィルムが不足すると考えた市川は、プロデューサーの田口と共に、国会の予算委員会へ赴いて、予算の増額を要望し、2億4千万円から3億9千万円に増額されたものの、それでも足りないと考えて企業タイアップを考案、国策映画であるため資金提供は不可という制約上、コカ・コーラ社オリベッティなど各社から撮影フィルムを無償提供して貰うことで、その謝礼として、劇中に選手がコーラを飲む場面や、オリベッティ製のタイプライターを映すといった、コマーシャル場面を挿入する演出を付け加えることにした。さらに国立競技場でロケハンをした際、作業員が観客席から豆粒サイズに見えたことに望遠レンズの必要性を感じて、日本中の望遠レンズをかき集め、一部は高額の外国製を取り寄せるなど撮影環境の充実を図った[3]
撮影

市川がすべての競技の撮影に参加する事は不可能であったため、監督部を設けた上で、前述の担当者たちを各競技会場に配置し、市川自身は、砲丸投げ槍投げ走り幅跳びバレーボールと数競技に立ち会うのみに留まり、これ以外は本部の置かれた赤坂離宮で待機する事になった。その際、監督たちとスタッフたちの間の意識統一を図るため、打ち合わせを毎日、各部局ごとにリモート方式で行うことを常とした。市川は、この毎日の打ち合わせこそが、本作の演出の肝になると考え、毎日、自身が描いた絵コンテをカメラマンたちに配るなど、打ち合わせに心血を注いだ。赤坂離宮の本部には、100台ほどカメラやレンズなど機材が集められ、スタッフは毎朝集合してロケ撮影に出発し、大会終了後はアオイスタジオが全提供したワンフロアに、編集室と映写室が作られて仕上げ作業が行われた。本作は五輪初のカラーワイド作品となり、テクニスコープが採用された。撮影フィルムはイーストマン、フジ、さくらの三種類が用いられたが、技術監督の碧川道夫の判断で、さくらやフジフィルムは当時、技術的な問題でハイスピード撮影に使用できず、ラッシュ用ポジや公開用プリントなどの一部に使用されるに留まり、大部分はイーストマンカラーで撮影された[4]

五輪が始まる以前から、市川は、本作の主役は東京という都市であると考え、毎日の打ち合わせが終わるとすぐにカメラマンと外出し、五輪によって激しく変わる東京の街を撮り続けた。これは市川が参考にしたレニ・リーフェンシュタール監督の『民族の祭典』を別視点で表現するという演出を試みたからである。また『民族の祭典』では、作品として本番で撮れなかった不足分を補う、後撮りが多く散見することを参考試写で発見し、「作り物」を堂々と見せることも記録映画としての演出と判断し、聖火ランナーの場面などの一部を後撮りで行った。市川は『民族の祭典』を韻文に例えるなら、本作は散文であると考え、単なる記録としてのニュース映画に終わらせず、様々な雑感を撮る映画であることを心がけた。ギリシャでの聖火点火の撮影には不参加だったが、聖火ランナーが通る広島市の撮影には参加している[5]

10月10日の開会式当日は、前日が嵐だった事もあり、開催が危ぶまれた。市川は事務総長の与謝野秀に問い合わせ、「明日も嵐なら中止、順延はない。天皇陛下が傘を差してスタンドの玉席に立っていられる程度の雨ならやる」との回答に気を揉んだが、当日は一転して日本晴れとなり、「天皇陛下はついておられるなあ」とつぶやいたという。大会中、撮影用の伴走車は一台のみが許可されており、ハイスピードカメラ2台、ノーマルカメラ2台の計4台を駆使して、主にマラソン競技で使用された。市川自身が撮影に立ち会った女子バレーボール競技では、屋内競技のため、望遠レンズが光量不足で使用できず、広角レンズで撮影された。また、撮影を巡って団体側と技術部が揉める一幕もあったが、協議の結果、決勝戦では約30台のカメラが配置された。本作では、製作時に市川が用意した1600ミリの望遠レンズが多用されているが、一部の競技では、許可された競技場内に約9尺ほどの櫓を組んでの撮影も行われている。さらに、各競技の担当者と打ち合わせた上で、走り幅跳びは接近撮影した映像、砲丸投げは許可された背後からの撮影した映像を使用している。閉会式は、当初の予定にはないハプニング形式で幕を閉じ、前々からの撮影プランが全て吹っ飛んだ市川は不安になり、スタジアム中を駆け回って撮影状況を確認し、後日のラッシュを見て安堵したという[6]
ポスト・プロダクション

エンディングのクレジットタイトルは、市川の提案で、全スタッフがアルファベット順・肩書なしで表示される方式を採ったが、組織委員会から、責任者である総監督である市川とプロデューサーの田口だけは別表記するよう横槍が入り、中途半端な演出となっている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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