株式会社東亜プラン(とうあプラン、TOAPLAN Co., Ltd.)
1984年から1994年にかけて、主に業務用のシューティングゲームを中心に開発していた日本の会社。東京都杉並区清水に本社を置いていた。また開発部が東京都豊島区池袋や、新宿区新宿3丁目に置かれていた事もある。
2001年にアリーナ株式会社として設立、2011年11月、現社名に変更した日本の企業。本社は東京都新宿区大久保。1.の元社長である林泰三が代表取締役を務める。後述サウンドトラックに旧社名での(c)表示がある。
本項目では主に1.について記述する(現在の東亜プランについて言及する場合は「東亜プラン(新)」とする)。 オルカ倒産後に在籍していたソフトチームがクラックスを設立。そのクラックスが経営難を理由に再び倒産し、一部スタッフがアーケードゲームの販売代理店だった東亜企画に移り、ゲームソフト部門を作ったのが東亜プラン誕生のきっかけだと言われている。東亜企画自体は1979年4月に設立。当初の代表取締役社長は清本吉行で、1992年に退任し、コメットの林泰三が社長を兼務することになった[1]。 マンションの一室でゲーム開発という環境からの再スタート、初期はタイトーを中心に他メーカーの下請けとしてゲームを製作していた。『究極タイガー』の成功により知名度が上がり、開発環境が整うと『ヘルファイヤー』を境に自社ブランドでの発売も行うようになった。なお流通については、引き続きタイトーが販売していた。 『タイガーヘリ』や『飛翔鮫』等の、「フライングタイガースシリーズ」と呼ばれる一連の作品で縦スクロールシューティングの基礎を築いた。やがてシューティングブームの到来によって『達人王』等の、高難易度をアピールした作品を次々と製作し、シューティングゲームの高難度ブームを誘発。しかしこれが一般プレイヤーの減少を起こす一因となった。 末期には『BATSUGUN』や、お家芸とも言えたシューティングゲーム一辺倒からアクションゲームなどの作品をリリースするなど、初心者にも配慮された作品を製作した。しかし、ゲーム人気が対戦格闘ゲームに移りつつあった当時、市場に受け容れられたとは言い難かった。 1994年7月4日付けで破産[2]。その後、主要なスタッフがケイブを設立し、『首領蜂』等アーケードゲームの製作を続けていた。またタクミコーポレーションやタムソフト、タイトー等に移ったスタッフもいる。 1990年代中頃から2000年代初頭にかけて消えていった数多くのアーケードゲームメーカーの代表格として、SNK、データイースト、コンパイル、彩京などとともによく取り上げられる。現在も多くのファンがいる。 東亜プラン倒産後、長らく知的財産権の所有者が不明となっており、この期間はゲームの移植や音楽のCD化は不可能だった。 2011年、TwitterおよびUSTREAMにて版権元が見つかった旨が報じられる[要出典]。その後、同年11月には「東亜プラン」(新)に改名した企業がwebサイトを開設。同時期にはスーパースィープから東亜プランの資料関係を記録したデータファイルが付属する音楽CD「東亜プラン シューティングクロニクル」が販売された。 2017年5月、『TATSUJIN』のメインスタッフである弓削雅稔が代表取締役を務める「株式会社TATSUJIN 2022年8月、スウェーデンのEmbracer Groupは株式会社TATSUJINを買収すると同時に、東亜プラン作品の版権も取得したことを発表している[4]。ただし日本で以降に東亜プランの移植作品がリリースされた場合、クレジットは「?TATSUJIN」表記が引き続き使われている。 2023年9月、株式会社TATSUJINにて『スノーブラザーズ ワンダーランド』、『TATSUJIN EXTREME』、『Amusement Arcade TOAPLAN』などのタイトルを発表した[5]。 発売年発売元タイトル
概要
知的財産権の管理状況について
東亜プラン開発の主なアーケードゲーム
1984年東亜プラン雀王
1985年4月データイーストパフォーマン
1985年10月タイトータイガーヘリ
1985年東亜プラン雀狂
1986年3月タイトーゲットスター
1986年7月タイトースラップファイト
1986年東亜プラン麻雀シスターズ
1987年3月タイトー飛翔鮫
1987年9月タイトーワードナの森
1987年11月タイトー究極タイガー
1988年5月タイトーダッシュ野郎
1988年10月タイトーTATSUJIN
1989年4月タイトー/東亜プランヘルファイヤー