東久邇成子
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東久邇 成子
(盛厚王妃 成子内親王)
東久邇宮家
1959年昭和34年)10月14日撮影
続柄昭和天皇第1皇女子

全名東久邇 成子(ひがしくに しげこ)
称号照宮(てるのみや)
身位内親王王妃内親王 → (皇籍離脱
敬称殿下 → (皇籍離脱)
お印紅梅
出生1925年12月6日
日本東京府東京市赤坂区
東宮仮御所(赤坂離宮)
死去 (1961-07-23) 1961年7月23日(35歳没)
日本東京都千代田区千代田
皇居宮内庁病院
埋葬1961年8月4日
日本東京都文京区大塚
豊島岡墓地
配偶者東久邇盛厚(盛厚王)(1943年 - 1961年
子女東久邇信彦(信彦王)
高木文子(文子女王)
壬生基博(東久邇秀彦)
東久邇真彦
東優子
父親昭和天皇
母親香淳皇后
栄典勲一等宝冠章

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称号:内親王


東久邇 成子(ひがしくに しげこ、1925年大正14年〉12月6日 - 1961年昭和36年〉7月23日)は、日本旧皇族盛厚王勲等勲一等

旧名は、成子内親王(しげこないしんのう)、は成子(しげこ)、御称号は照宮(てるのみや)[1]お印紅梅 (こうばい)[2]。結婚から皇籍離脱前までの名は、盛厚王妃 成子内親王(もりひろおうひ しげこないしんのう)。

昭和天皇香淳皇后の第1皇女子(2男5女のうち第1子)。第126代天皇徳仁秋篠宮文仁親王島津禎久は甥、黒田清子(紀宮清子内親王)は姪に当る。

また、久宮祐子内親王鷹司和子池田厚子島津貴子は妹に、第125代天皇・明仁上皇)と常陸宮正仁親王は弟に当る。
生涯
誕生1926年(大正15年)、父・裕仁親王(左)、母・皇太子妃良子女王(右)と1926年(大正15年)6月頃、成子内親王に目を細める皇太子夫妻(当時)呉竹寮での姉妹。孝宮和子内親王(右)・順宮厚子内親王(左)と。

1925年大正14年)12月6日午前、皇太子妃良子女王(当時)は散歩の途中に出産の兆候があり、午後6時頃に産殿に入った[3]。午後8時10分、皇太子裕仁親王(当時)と同妃良子女王の第1子[注 1]として誕生[4]。出産予定は11月下旬と発表されていたため、待ちわびる市民から侍医らに批判も起きていた[5]。誕生時の身長は163分(約49cm)、体重は873(約3270g[6]

1923年(大正12年)関東大震災以来の不景気等暗い世相の中、皇太子妃の懐妊、そして大正天皇貞明皇后の初孫誕生は明るいニュースであった。成子内親王の誕生は国民から盛大な祝福を受け、民間でもさまざまな祝賀が行われた。東宮仮御所である赤坂離宮から四谷見附まで、内親王誕生を喜ぶ人々で埋まった[5]皇宮警察官の回想では、その中でも特に朝鮮人の団体が日の丸の旗や提灯を掲げ、朝鮮の音楽とともに祝賀していた姿が印象的であったという[5]。また先述の背景から、皇太子妃良子女王の妊娠出産に関する報道も多く、以後、新聞における皇室報道でも女性皇族の妊娠出産に関する報道が増えるきっかけとなった[7]

同年12月12日命名の儀が行われ『易経』より「恒」を由来として「照宮 成子」と命名された[8][9]

1926年(大正15年)3月30日、初めて参内し大正天皇・貞明皇后と対面した際には、沿道に大勢の市民が集った[10]
養育を巡って

皇太子裕仁親王・同妃良子女王の意向もあり、里子には出されず両親の手元で養育される[11]。全国から3人の乳人が選ばれた[12]が、夜中以外は使わず[13]、当時としては画期的なことであった。

成子内親王が満1歳の誕生日を迎えた直後、1926年昭和元年)12月25日、祖父・大正天皇の崩御に伴う父・皇太子裕仁親王の践祚により、成子内親王は天皇の第一皇女になり、また、自身の満年齢が昭和と同一になった。成子内親王は幼稚園には通園しなかったが、選ばれた学友達が葉山御用邸赤坂離宮へ参内し、また成子内親王が幼稚園を訪問したり吹上御苑新宿御苑等で幼稚園児らと交流を持った[14]。この頃、昼食の際に「だいじなだいじなおもうさまとおたあさま」と微笑みながら発語したという[15]

しかし、その後、「昭和天皇と香淳皇后の側では養育係が仕えにくく、結果わがままに育った」という批判を受けるようになった。そのため女子学習院入学を控えた1931年(昭和6年)10月、旧本丸内に呉竹寮の建設が決定[16]。翌1932年(昭和7年)4月6日から呉竹寮に移り、家族と別居した。4月9日に女子学習院へ入学。

呉竹寮は、当初から1932年(昭和7年)時点で誕生していた妹宮達が入寮することができるよう設計され、後に学齢を迎えた妹宮たちと共に生活するようになる[17]


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