東三条殿
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東三条殿復元模型(京都文化博物館) 1. 寝殿(しんでん)、2. 北対(きたのたい)、3. 細殿(ほそどの)、4. 東対(ひがしのたい)、5. 東北対(ひがしきたのたい)、6. 侍所(さむらいどころ)、7. 渡殿(わたどの)、8. 西透廊(にしすきろう)、9. 釣殿(つりどの)

東三条殿(ひがしさんじょうどの、とうさんじょうどの、とうさんじょうでん)は、平安時代平安京左京3条3坊1町及び2町(二条大路西洞院大路東)の南北2町に跨って建てられた邸宅。東三条院とも。現在の京都市中京区押小路通釜座西北角の付近にあたる。摂関家当主の邸宅の一つで、特に藤原兼家の主邸であったところから彼を「東三条殿」と号し、またその娘藤原詮子の里第であったところから、彼女は出家後に「東三条院」の院号を与えられて、初の女院となった(ただし、女院となってからは東三条殿に住んでいない)。後院里内裏としても用いられ、特に11世紀後半からは摂関家の象徴的邸宅として重視され、保元の乱の舞台ともなった。また、太田静六によって寝殿造の代表例とされて以来、建築史の研究対象としても重視されている。
摂関期
9世紀の東三条殿

二中歴』・『拾芥抄』にその所在地とともに忠仁公藤原良房804年 - 872年)の家と見え、貞信公藤原忠平880年 - 949年)、藤原兼家929年 - 990年)が伝領したほか、重明親王906年 - 954年)の家であったとも伝えるが、初期の伝領関係や使用歴には不明な点が多い。良房の主たる邸宅としては、平安京北東に東一条殿(小一条殿、父藤原冬嗣から伝領)や染殿があり、同時代の記録上に東三条殿の名は見えない。ちなみに、右京にあった弟藤原良相の邸宅は西三条殿と呼ばれた。一方、東三条殿の西には、西洞院大路を挟んで、冬嗣の邸宅であった閑院(後に藤原基経邸、藤原兼通邸、藤原公季邸)があり、その更に西には堀河殿(基経邸、後に兼通邸)があった。

記録の上では、『日本紀略仁和4年(888年)に太政大臣藤原基経の邸宅として「東京三条第」が見える[1]。次いで寛平5年(893年)8月と寛平9年8月に「太上皇皇后が東三条院に遷御した」と見え、そのまま当時の上皇に比定するとそれぞれ陽成上皇宇多上皇に関わる記事と考えられるものの、両記事の内容が日付を含めほぼ同文であることや、この時期皇后は不在のことから、疑問が残る。後者について『扶桑略記』により詳しい記事があるところから、『大日本史料』では譲位直後の宇多上皇と皇太后班子女王の記事としてのみ採録する。上皇は約半年後に朱雀院に移っている。
忠平邸から兼家邸へ

忠平の日記『貞信公記』には承平1年(931年)2月に「東三条」から書状を送ったことが見え、この頃には忠平の所有であったらしい。天暦元年(947年)10月には村上天皇女御藤原述子(忠平孫)が東三条第で没している[2]。また重明親王は忠平の女婿であったことから、一時期その家であったという伝承も史実と考えられている。重明親王邸時代の説話は『今昔物語集』や『中外抄』等に見え、左近桜を重明親王邸から内裏に移したという伝承も東三条殿に関わるとも言われる。

その後、忠平の孫である藤原兼家の妻の一人が記した『蜻蛉日記』の安和2年(969年)閏五月の段に、「新しきところ作るとて通ふたよりに」立ち寄ってくる等とあり、翌年初頭の段には「めでたく作りかかやかしつるところに、明日なむ、今宵なむとののしる」とあることから、この頃に兼家が東三条第を改築して自邸としたと考えられている。ちょうど安和元年に兼家長女の藤原超子冷泉天皇に入内しており、その里第としての機能があったとする説もある。当時の構造は中央に寝殿が置かれてその左右に東西の対が連なる本院と、敷地の南側に別邸である南院を配置していたとされる。この後、東三条殿は兼家の主邸となったため、彼のことを「東三条殿」と号す。犬猿の仲の兄藤原兼通は近くの堀河殿を主邸として「堀河殿」と呼ばれ、『栄花物語』には東三条殿へ向う車馬を兼通側が監視した様が描かれている。

なお、安和2年(969年)8月、冷泉天皇円融天皇に譲位した際に、皇后昌子内親王は「東三条」に移っているが[3]、この御所はその後「三条院」「三条御所」等とも呼ばれ、正暦2年(991年)に焼亡しており[4]、別の邸宅であったらしい。

超子は天延4年(976年)、東三条殿で居貞親王(後の三条天皇)を産み、同じく超子の生んだ為尊親王敦道親王も東三条殿で育った。また、円融天皇の女御であった兼家次女藤原詮子は南院を里第とし、天元3年(980年)にはここで懐仁親王(後の一条天皇)を産んだ。

永観2年(984年)3月、東三条殿は焼亡する[5]。当時、内裏は近くの堀河殿にあり、東宮師貞親王は隣の閑院にいたため、多くの公卿が付近に駆け付けたという。ただ、南院は焼亡を逃がれたらしく、懐仁親王は、同年8月、立太子とともに南院から内裏凝華舎へ移っている[6]。また、寛和元年(985年)には、詮子と懐仁親王のいる東三条第南院を円融上皇が訪れている[7]。翌年6月末に懐仁親王が一条天皇として即位すると、7月に詮子は東三条第南院で皇太后に立后され、内裏に移った。追って南院では居貞親王が元服・立太子している。

摂政となった兼家は、翌永延元年(987年)、東三条第本院を再建し、7月には移り住んだ。『大鏡』によると、この時に西対を内裏清涼殿に模して建てたために批判を浴びたという。8月末には南院に詮子が入っている。『大鏡』によれば、この頃、詮子は源高明の娘明子を東三条殿の東対に住まわせて姫宮のようにもてなし、藤原道長を通わせたという。
道隆時代

正暦1年(990年)7月の兼家の死後、東三条殿は父の後を継いでとなっていた嫡男道隆に継承されたと見られる。同年10月に、中宮藤原定子は東三条第より入内している [8]。また、引き続き詮子の里第として用いられたらしく、詮子は幾度か内裏から職御曹司を経て東三条第(南院)に下っている[9]

翌年の正暦2年(991年)9月、詮子は職御曹司出家して日本最初の女院となり、この居宅の名より「東三条院」を院号とした。ただ、11月に内裏を退出して以降は、道長の土御門殿御所とし、東三条殿に住むことはなかった [10]

正暦4年(993年)3月、摂政道隆の邸宅であった東三条第の南院が全焼する[11]。本院は焼失を免れたらしく、南院もすぐに再建され、翌年11月には完成した。『大鏡』には、この頃に道隆嫡男の伊周が南院においての遊びを開催した際に、思いかけずやってきた道長を道隆が歓待したが、弓の勝負で自家の繁栄を誓言した道長が勝って青ざめたという逸話が伝えられている(ただしこの南院は伊周邸の二条殿とする解釈もある)。


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