東プロシア
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座標: 北緯54度44分 東経20度29分? / ?北緯54.733度 東経20.483度? / 54.733; 20.483

東プロイセン
Ostpreusen


1772?1829
1878?1945
 




国旗国章

1871年、ドイツ帝国領内、プロイセン王国の東プロイセン(赤)
首都ケーニヒスベルク
政府入力がありません
歴史
 ? 第一次ポーランド分割1773年1月31日
 ? 廃止1829年12月3日
 ? 復活1878年4月1日
 ? ソビエト軍が占領1945年
面積
 ? 190536,993 km2 (14,283 sq mi)
人口
 ? 1905年推定2,025,741人
     密度54.8人/km2  (141.8人/sq mi)
現在 ロシア
 ポーランド
 リトアニア
1881年の東プロイセン地図14世紀の東プロイセン

東プロイセン(ひがしプロイセン、ドイツ語: Ostpreusen; ポーランド語: Prusy Wschodnie; ロシア語: Восточная Пруссия)は、ヨーロッパバルト海の南岸にある地域の歴史的な地名。ワイクセル川ヴィスワ川)とメーメル川ネマン川)に挟まれている[1]。東プロシア、あるいはオストプロイセンとしても知られている。首都は、ケーニヒスベルク 。東プロイセンは、バルト民族プルーセン人が住み、13世紀に十字軍運動によりドイツ騎士団がプロイセンを征服し、ドイツ騎士団国となった。1871年、東プロイセンはドイツ帝国の主要都市となる。

1772年ポーランド・リトアニア共和国の分割で殆どの西部地方を失った、第二次世界大戦まではドイツプロイセン州北東端の地域であった[1]

現在のポーランドロシアリトアニア


目次

1 歴史

1.1 ドイツ騎士団

1.2 ポーランド王領プロシア

1.3 プロイセン王国

1.4 ドイツ帝国

1.5 ヴァイマル共和国

1.6 ドイツ帝国(ナチス・ドイツ)

1.7 東プロイセン分割


2 現在

2.1 ソ連(ロシア)側

2.2 ポーランド側


3 脚注

4 参考文献

5 外部リンク


歴史
ドイツ騎士団

プロイセンには、ゲルマン民族スラブ民族とは異なるバルト民族プルーセン人が住み、古プロイセン語が話されていた。

1226年、ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公)は異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて[2]、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。騎士団は征服し、教皇の名の下、教皇としてプロイセンを統治し布教した。プルーセン人はカトリックに改宗、ドイツ騎士団国となった。ドイツ人東方植民によりドイツ系住民が増大した。ドイツ人人口が大多数となり、何世紀かの間にプルーセン人はドイツ化し、少数民族にはポーランド人とリトアニア人がいた。プレーゲル川の河口の港町ケーニヒスベルクハンザ同盟都市)は、琥珀など流域の物資を集散しバルト海を通じて交易するこの地域の中心都市として繁栄していた。

ドイツ騎士団マリーエンブルクマリーエンブルク城を建て本拠地とし構えた。農民やスラブ人達はしばしばドイツ騎士団の支配に対して反乱を起こした。

1525年、ドイツ騎士修道会総長でホーエンツォレルン家アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクプロテスタントに改宗し、世俗の「プロイセン公」となってドイツ騎士団国の東プロイセンにプロイセン公国を創設した。



ポーランド王領プロシア

1410年グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)に続く15世紀前半の戦争を経てドイツ騎士団国家は弱体化した。1440年には都市、諸侯、(ドイツ騎士団に属さない)僧侶がドイツ騎士団に反発してプロイセン連合を結成しポーランド王国と同盟した。1466年の和睦(第二次トルンの和約)でドイツ騎士団は西プロイセンをポーランドに譲り、東プロイセンはポーランド国王の宗主権下に入りポーランド王領プロシア1466年 - 1772年)となった。プロイセン連合加盟の諸都市や諸侯の自治権が勝利者のポーランド王国によって保障された。

1558年イヴァン4世リヴォニア戦争を起こす。1561年テッラ・マリアナが分割され、プロイセン公国の影響下から離脱。1618年にプロイセン公の後継者が絶えると、ブランデンブルクを領地とする同族のブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムント(在位1608-1619)がプロイセン公を兼ねる同君連合体制となり、ポーランド国王の宗主権下に東プロイセンを統治した。この頃からスウェーデンバルト海に勢力を伸張し、東プロイセンにも影響を与え、1626年には、スウェーデン王グスタフ2世アドルフによって一時制圧された。
プロイセン王国

1660年には、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が東プロイセンをポーランド国王の宗主権から解放し、1680年までにスウェーデンの影響力を完全に排除した。


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