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(国旗)(国章)
1871年、ドイツ帝国領内、プロイセン王国の東プロイセン(赤)
首都ケーニヒスベルク
元首等
xxxx年 - xxxx年不明
面積
1905年36993km²
人口
1905年2025741人
変遷
第一次ポーランド分割1773年1月31日
廃止1829年12月3日
復活1878年4月1日
ソビエト軍が占領1945年
現在 ロシア
(カリーニングラード州)
ポーランド
リトアニア
1881年の東プロイセン地図14世紀の東プロイセン
東プロイセン(ひがしプロイセン、ドイツ語: Ostpreusen、ポーランド語: Prusy Wschodnie、ロシア語: Восточная Пруссия、リトアニア語: Ryt? Pr?sija)は、ヨーロッパのバルト海の南岸にある地域の歴史的な地名である。ワイクセル川(ヴィスワ川)とメーメル川(ネマン川)に挟まれている[1]。「プロイセン」を英語読みとした東プロシア、あるいは「東」をドイツ語読みとしたオストプロイセンとしても知られている。首都は、ケーニヒスベルク。
東プロイセンは、バルト民族のプルーセン人が住み、13世紀に十字軍運動によりドイツ騎士団によって征服され、ドイツ騎士団国となった。ドイツ騎士団国は1525年にプロイセン公国となり、プロイセン公国は1701年に王国へ昇格した。1772年、ポーランド・リトアニア共和国の分割で西プロイセンすなわち王領プロイセン(ポーランド王国領であった)もプロイセン王国領となると、それまで飛び地だった東プロイセンは王国の残りの部分と陸続きになった。1871年、ドイツ帝国が成立すると、東プロイセンもその一部となった。
第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約で、西プロイセンがポーランド領(ポーランド回廊)となると、東プロイセンは再び飛び地となった。またこのとき、メーメルが分割されてリトアニア領となっている。第二次世界大戦まではワイマール共和国のプロイセン自由州北東端の地域であった[1]。ナチス・ドイツが第二次世界大戦に敗れると、東プロイセンはソ連とポーランドによって分割された。ソ連領となった部分はソ連崩壊後、さらにロシアとリトアニアに分割された。
そのため、現在はポーランド、ロシア、リトアニアに属している。 プロイセンにはゲルマン民族やスラブ民族とは異なるバルト民族のプルーセン人が住み、古プロイセン語が話されていた。 1226年、ポーランドのコンラト1世は異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて[2]、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。騎士団は征服し、教皇の名の下でプロイセンを統治し布教した。プルーセン人はカトリックに改宗し、ドイツ騎士団国となった。ドイツ人の東方植民によりドイツ系住民が増大した。ドイツ人人口が大多数となり、何世紀かの間にプルーセン人はドイツ化し、少数民族にはポーランド人とリトアニア人がいた。プレーゲル川の河口の港町ケーニヒスベルク(ハンザ同盟都市)は、琥珀など流域の物資を集散しバルト海を通じて交易するこの地域の中心都市として繁栄していた。 ドイツ騎士団はマリーエンブルクにマリーエンブルク城を建て本拠地とし構えた。農民やスラブ人達はしばしばドイツ騎士団の支配に対して反乱を起こした。 1525年、ドイツ騎士修道会総長でホーエンツォレルン家のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクはプロテスタントに改宗し、世俗の「プロイセン公」となってドイツ騎士団国の東プロイセンにプロイセン公国を創設した。 1410年のグルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)とこれに続く15世紀前半の戦争を経てドイツ騎士団国家は弱体化した。1440年には都市、諸侯、(ドイツ騎士団に属さない)僧侶がドイツ騎士団に反発してプロイセン連合を結成しポーランド王国と同盟した。1466年の和睦(第二次トルンの和約)でドイツ騎士団は西プロイセンをポーランドに譲り、東プロイセンはポーランド国王の宗主権下に入って王領プロイセン(1466年 - 1772年)となった。プロイセン連合加盟の諸都市や諸侯の自治権が勝利者のポーランド王国によって保障された。 1558年、イヴァン4世がリヴォニア戦争を起こす。1561年、テッラ・マリアナが分割され、プロイセン公国の影響下から離脱。1618年にプロイセン公の後継者が絶えると、ブランデンブルクを領地とする同族のブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムント(在位1608-1619)がプロイセン公を兼ねる同君連合体制となり、ポーランド国王の宗主権下に東プロイセンを統治した。この頃からスウェーデンがバルト海に勢力を伸張し、東プロイセンにも影響を与え、1626年には、スウェーデン王グスタフ2世アドルフによって一時制圧された。 1660年には、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が東プロイセンをポーランド国王の宗主権から解放し、1680年までにスウェーデンの影響力を完全に排除した。そして1701年、大選帝侯の子ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はケーニヒスベルクに赴き、フリードリヒ1世としてプロイセン王に即位、プロイセン公国は「プロイセン王国」となった。ホーエンツォレルン家の主な領土はベルリンを中心としたブランデンブルク選帝侯領であったが、飛び地の東プロイセンは名目上神聖ローマ帝国の範囲外であり、ここでなら皇帝の臣下である選帝侯フリードリヒ3世も王となることができたのである。 1701年にプロイセン王国がマズルィ
歴史
ドイツ騎士団
王領プロイセン
プロイセン王国
1806年にナポレオンは、第三次対仏大同盟に勝利してオーストリア帝国とプレスブルクの和約を締結し、神聖ローマ帝国が崩壊して親仏のライン同盟が結成された。中立の立場をとっていたプロイセン王国は、北ドイツからドイツ各地に勢力を広げ始め、ブランデンブルクは1806年にブランデンブルク州(英語版)となった。ポメラニアは、1814年のキール条約でデンマーク=ノルウェーを解体したスウェーデンがノルウェーを獲得する引き替えに代償として譲渡する事とされていたが、ウィーン会議(1814年 - 1815年)でプロイセン王国に割譲された。