公用語古ザクセン語
古高ドイツ語
古フリジア語
首都フランクフルトやレーゲンスブルクなど様々
国王
843年 - 876年ルートヴィヒ2世
876年 - 887年カール3世
899年 - 911年ルートヴィヒ4世
919年 - 936年ハインリヒ1世
936年 - 962年オットー1世
変遷
ヴェルダン条約843年
カール3世のフランク王国統一884年
フランク王国最後の分裂887年
カロリング朝断絶911年
オットー1世皇帝戴冠962年
現在 ドイツ
オーストリア
チェコ
スイス
イタリア
スロベニア
ドイツの歴史
東フランク王国
東フランク王国(ラテン語: Francia orientalis)は9-10世紀に渡って西ヨーロッパに存在した王国である。現在のドイツの原型にあたる。
西ヨーロッパは9世紀初頭にローマ教皇から皇帝の地位を授けられたフランク王カール大帝によって統一されていた。しかし大帝の死後早くから内部紛争により国家分裂の危機が生じていた。840年に第2代皇帝ルートヴィヒ1世が崩御すると翌年にフォントノワの戦いが勃発。843年のヴェルダン条約によって帝国は正式に三分割された。その東部分がルートヴィヒ1世の三男であるルートヴィヒ2世の統治領域となった東フランク王国である。
ルートヴィヒ2世は父帝に反抗的だったため、東フランク王国は帝国の権威を引き継ぐことができず、帝国として正統だったのは中フランク王国である。しかし中フランク王国はまもなく北イタリアのみを統治するイタリア王国へと縮小した。西フランク王国もまた内憂外患で政情が安定しなかった。そのような状況で東フランク王国は着々と力を蓄えて西ヨーロッパの中心となっていった。9世紀末には神聖ローマ帝国の盟主としてふるまい、10世紀中ごろにはオットー1世の皇帝即位とイタリア併合によって神聖ローマ帝国そのものとなった。その後約200年は西欧最強だったが、やがて衰えてイタリアを失い現在のドイツとなった。
カール大帝の直系であるカロリング朝の統治は911年までだった。神聖ローマ帝国の理念は女系のザクセン朝、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝に引き継がれていった。帝国はごく一時期を除いて西フランク王国を併合できず、西欧がゲルマン系のドイツとラテン系のフランスに分かれる原因となった。 カール大帝の子である第二代神聖ローマ皇帝・ルートヴィヒ1世が840年6月20日に死ぬと、三人の息子が領土を巡って争った。843年8月にヴェルダン条約が結ばれ、敬虔帝の息子の一人ルートヴィヒ2世がフランク王国東部を継承して東フランク王国が成立した[1]。
歴史ヴェルダン条約およびメルセン条約によるフランク王国の分割。橙色の部分が東フランク王国。
ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)