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東ケト会(とうけとかい)は、「東日本何でもケトばす会」の略。作家、椎名誠が主催した野外キャンプ会。第一次あやしい探検隊とも呼ばれる。本記事では第二次あやしい探検隊であるいやはや隊、第三次あやしい探検隊であるあやしい雑魚釣り隊についても記述する。 日本の離島やキャンプ地にテントで宿泊し焚き火宴会を行うことを主たる活動とする、椎名誠を中心とした私的なサークルの名称である。発足は1963年から1965年頃で、1968年に第一回遠征・琵琶湖合宿を行った。『月刊おれの足』を中央理論誌としている[1]。 椎名誠の著作『わしらは怪しい探検隊』シリーズにその求道的でないユニークな活動内容が紹介され、全国に模倣、類似サークルが発足した[2]。 主要なメンバーに、椎名誠、イラストレーターの沢野ひとし、当時本の雑誌社社長であった目黒考二、弁護士の木村晋介がいる。 メンバーは同時に、椎名誠の映画『神島でいかにして飯を喰ったか…』(1974年)、『三人で夕やけを見にいった』(1976年)、『ガクの冒険』(1990年)等の撮影を行う際のスタッフ、登場人物でもあった[3]。 必要な物品や食料は必ず出発地から運送、参加者は男性のみ、「ドレイ」と呼ばれる下働き員の存在を特徴とする。初期は、沢田康彦(のち編集者)、上原ゼンジ(のち、本の雑誌社社員)米藤俊明(のち、サラリーマン)らがドレイメンバーであった。ドレイには集合場所までどこに行くか知らされず、何を持っていったら良いかすら判らない状態で準備をしなければならなかった[4]。 八丈島に「第一東ケト丸」という船を共同保有していたが、台風の影響で流されてしまった。 後年、参加者の高齢化や社会人としての制約から自由な活動ができなくなったことを原因として[5]、「第二次あやしい探検隊」として椎名誠、写真家の中村征夫、カヌーイストの野田知佑、辺境写真家の佐藤秀明、山岳写真家の岡田昇
会の概要
いやはや隊の食事の多くを林政明が調理した。林政明は「リンさん」と呼ばれ、ごはん・卵・ネギのみのシンプルな「リンさんチャーハン」や、沢野ひとしが気に入っていた「フキの豆板醤炒め」、唐辛子入りの醤油にキュウリなどを漬ける「リンさん漬け」などの料理を作った[6]。その後、1990年代には椎名が映画制作に熱中して、活動はほぼ行われなくなっていた。
2000年代に入った現在、釣りジャーナリストの齋藤海仁らをメンバーとした「第三次あやしい探検隊」として「怪しい雑魚釣り隊」として活動している。2015年10月18日に怪しい雑魚釣り隊10周年イベントが新宿三丁目で行われた。 『怪しい探検隊 北へ』「登場人物紹介」、『わしらは怪しい雑魚釣り隊』「あとがき」、『春夏秋冬いやはや隊が行く』による。
主要メンバー
東ケト会
椎名誠(隊長)
沢野ひとし(初代料理長)
目黒考二(釜炊き担当料理人。「焚き火節」「サザエ甚句」「ウラオモテサルシマネコ甚句」など即興の歌を歌う)
長谷川智(二代目料理長。ガソリンを焚き火に吹き付け口から火を吐く「火吹きの長谷川」)
木村晋介
高橋勲(通称・にごり目のイサオ)
依田正晴
山森俊彦(長老。椎名の出版社時代の4つ年上の先輩)
小安稔一(通称・陰気な小安)
米藤俊明(ドレイ第一号、のち名誉ドレイ)
上原ゼンジ(ドレイ)
沢田康彦(ドレイ)
いやはや隊
椎名誠(隊長)
林政明
三島悟(料理人)
野田知佑
中村征夫
川上裕
ローリー・イネステーラー
佐藤秀明
大蔵喜福(タワシ髭の登山隊長)
越谷英雄
岡田昇