中華人民共和国 浙江省 杭州市
上から時計回り:西湖の蘇堤、西湖の楊公堤、胡雪巌故居、西湖と集賢亭、六和塔上から時計回り:西湖の蘇堤、西湖の楊公堤、胡雪巌故居、西湖と集賢亭、六和塔
略称:杭
旧称:臨安 / 銭塘
浙江省中の杭州市の位置浙江省中の杭州市の位置
中心座標 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯30度15分0秒 東経120度10分0秒 / 北緯30.25000度 東経120.16667度 / 30.25000; 120.16667
杭州
各種表記
簡体字:杭州
?音:Hangzh?u
通用?音:Hang-chou
注音符号:?????
発音:ハンチョウ
IPA:[x?̌?t?ó?]
広東語?音:Hong4zau1
上海語?音:?a?-tsei
?東語平話字:Hang-chiu
日本語読み:こうしゅう
英文:Hangzhou
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杭州市(こうしゅう、中国語: 杭州市、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Hangzh?u Shi、英語: Hangzhou)は、中華人民共和国浙江省の省都。
概要杭州のスカイライン
中国八大古都の一つ[注釈 1]であり、国家歴史文化名城に指定されている。隋代以降、江南運河の終着点として経済文化が発達し、「上に天国あり、下に蘇州・杭州あり(上有天堂、下有蘇杭)」とたたえられた。また、五代十国の時代、呉越国の都となり、南宋時代には行在、事実上の都(1138年-1276年)、臨安府が置かれた。
市中心部の西には世界遺産の西湖という湖があり、国の内外より多くの観光客が訪れる。2016年にはG20杭州サミット、2023年には2022年アジア競技大会が開催されるなど国際都市の様相を呈している。同国最大の経済都市・上海からは高速鉄道(滬杭旅客専用線)で50分程の距離にある。 一般に「こうしゅう」と日本語読みされるが、広州市との区別が必要な場合[注釈 2]に「くいしゅう」と湯桶読みされることがある。 歴史的地名としての「杭州」の行政区画に関しては杭州の項目を参照。杭州市内の余杭区には、新石器時代末期に栄えた良渚文化(前3300年から前2200年ごろ)の遺跡がある。 春秋時代には、初め越に属し、後に呉に属した。周の顕王35年(紀元前334年)、楚が越を滅ぼして以降は、楚に属した。秦代には会稽郡の管轄とされ、南北朝時代になると549年(太清3年)、南朝梁により一時期設置された臨江郡 589年(開皇9年)、隋朝は銭唐郡を廃止して杭州を設置、杭州の地名の初見である。その後余杭郡と改められ、唐代になると再び杭州、余杭郡、そして758年(乾元元年)以降は杭州の名称が清末まで使用されることとなった。 杭州は隋代に建設された大運河(江南河部分)の南端とされ、唐代には南北を連絡する運河が整備され、貨物の集散地とし発展、貞観年間(627年-649年)には人口が15万人であったものが、開元年間(713年-741年)には58万人を数え、広州、揚州と並ぶ経済の中心となった。また822年(長慶2年)には白居易が杭州刺史として赴任、西湖の大規模水利事業を行っている。 五代十国時代に呉越の都となり西府と称した。呉越は杭州城壁の拡大、銭塘江の堤防整備などの水利事業を行っている。 北宋が成立すると杭州は両浙路の路治が設置され、1107年(大観元年)には杭州府に昇格した。当時は20万戸を数える江南地区最大の都市となっていた。1089年(元祐4年)には蘇軾が杭州知州に任じられ、西湖の浚渫事業、水利事業を行っている。南宋になると杭州はその全盛期を迎え、呉自牧
地名について
歴史
1276年(至元13年)、宋朝を滅ぼした元朝により杭州路が設置された。元代の繁栄の有様は、マルコ・ポーロが「キンザイ(=行在)」として『東方見聞録』で記している。少し遅れて訪れた同時代のイタリア人旅行家オドリコはカンサイと表記[1]。1341年(至正元年)杭州城内で大規模な火災が発生し15,755軒を消失、元末に杭州城は大規模な再建事業が実施された。1358年(至正18年)、反乱を起こし割拠した張士誠による杭州城再建が行われ、周囲64,020尺、高さ30尺、厚さ40尺というそれまでの規模を上回る杭州城を再建している。
元末の動乱期、軍事作戦を進める朱元璋は杭州行省を設置している。元末には度重なる戦火により杭州城にも被害が及び経済は衰退、西湖も泥土の堆積により農業灌漑に支障を来たすなどの被害を受けた。明朝が成立すると浙江承宣布政使司杭州府が設置され江南の経済中心地として発展し、織物業や茶葉の生産などによって栄え、蘇州と並ぶ江南の大都市となった。