来目皇子
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来目皇子
続柄第31代
用明天皇の第4皇子

出生不詳

死去推古天皇11年2月4日603年3月25日
筑紫国島郡
埋葬不詳
河内国埴生山岡上(現・大阪府羽曳野市
配偶者由波利王
 比里古郎女
子女男王
星河女王
佐富王
高椅王
日田王
父親用明天皇(第31代天皇
母親穴穂部間人皇女
役職征新羅大将軍
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来目 皇子(くめのみこ、生年不詳 - 推古天皇11年2月4日603年3月25日))は、飛鳥時代皇族。久米王とも。用明天皇の子。
略歴来目皇子 埴生崗上墓
大阪府羽曳野市

推古天皇10年(602年)2月に任那を滅ぼした新羅に対する新羅征討計画が立てられた際、征新羅大将軍として軍25,000を授けられる。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営したが、6月にを得て新羅への進軍を延期とした。征討を果たせぬまま、翌推古天皇11年(603年)2月4日に筑紫にて薨去周防娑婆(遺称地は山口県防府市桑山:桑山塔ノ尾古墳参照)にし、土師猪手がこれを管掌した。

河内国埴生山(はにゅうのやま)岡上に葬られた。現在、墓は大阪府羽曳野市はびきの3丁目の塚穴古墳方墳・一辺約50m)に比定され、宮内庁の管理下にある。
系譜

日田王を除く4人の王子女は『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』による。

父:用明天皇

母:穴穂部間人皇女 - 欽明天皇皇女・用明天皇異母妹、のち田目皇子(来目皇子の異母兄)妃・佐富女王

同母兄弟:聖徳太子殖栗皇子茨田皇子

妃:由波利王[1]桜井弓張皇女とも、婚姻前、もしくは来目皇子の死後押坂彦人大兄皇子妃か)- 敏達天皇推古天皇皇女

男子:男王[2]

女子:星河女王[3]

男子:佐富王[4]


妃:比里古郎女[5] - 膳傾子女、菩岐岐美郎女

男子:高椅王[6]


生母不詳の子女

男子:日田王[7] - 子孫は登美真人


脚注[脚注の使い方]^ 読みは「ゆばりのみこ」
^ 読みは「おとこのみこ」
^ 読みは「ほしかわのひめみこ」
^ 読みは「さほのみこ」
^ 読みは「ひろこのいらつめ」
^ 読みは「たかはしのみこ」
^ 中田憲信『皇胤志』(宝賀[1986: 108])

参考文献

宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年

関連項目

久米寺 - 来目王子が開基とされる。

久留米市 - 地名の由来を来目王子とする説がある。

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