来 歴(らい れき、生年不詳 - 133年)は、後漢中期の外戚、官僚。字は伯珍。来定の父。本貫は荊州南陽郡新野県。後漢建国の元勲である来歙の子孫である。 姓名来歴 →射聲校尉〔後漢〕 →劉?(安帝)→劉懿(少帝懿) 父:来? 母:劉惠(武安長公主) 永元年間(89年?105年)、祖父の来褒が亡くなった際、父の来?が既に早逝していたことを受け、公主の息子であることを理由として侍中に任じられ、羽林右騎を監督した。
事跡
初期の事績
時代後漢時代
生没年生年不詳 - 133年
字・別号伯珍(字)
本貫・出身地等荊州南陽郡新野県
職官侍中・監羽林右騎〔後漢〕
→執金吾〔後漢〕→太僕〔後漢〕
→将作大匠〔後漢〕→衛尉〔後漢〕
→車騎将軍〔後漢〕→大鴻臚〔後漢〕
爵位・号等征羌侯〔後漢〕
陣営・所属等劉肇(和帝)→劉隆(殤帝)
→劉保(順帝)
家族・一族祖父:来褒
弟:来祉、来超
子:来定 孫:来虎、来艶
その時、皇太子劉保 は小児性の病気にかかり落ち着かず、安帝の乳母であった野王君の王聖の家に身を寄せていたが、太子の乳母であった王男、厨監の?吉らは、王聖の家は新しく修繕したばかりで、土を動かすにあたっての禁忌[1]を犯しているから、皇太子が長居すべきでないと考えた。王男、?吉は王聖とその娘の王永、大長秋江京、中常侍の樊豊らとの対立の末獄死、家族およびその郎党はみな、日南郡比景県[2]に流刑となった。
太子は乳母のことをなつかしんで嘆くようになり、江京と樊豊は後の害をおそれて、太子と東宮の役人を捏造に基づいて讒訴した。帝は怒り、公卿以下に廃立を議論させた。耿宝らはみな帝の御心を察して皇太子を廃立すべしと思ったが、来歴と太常桓焉、廷尉張晧は議して言った。「経書で説かれるところによると、年が十五に満たないものの過ちや悪は、その身から出たものではありません。ましてや王男、?吉の謀は、皇太子の様子では知らなかったと思われます。よろしく忠良の教育係を選んで、礼儀をもって輔弼されるべきです。廃置のことは重大であり、まことに聖恩によって思いとどまりますよう」帝は従わず、この日ついに劉保は廃太子されて済陰王となった。時の太子の家の小黄門であった籍建、中傅の高梵らは皆罪がないのに朔方に流罪となった。
来歴は光禄勲の?諷、宗正の劉?、将作大匠の薛皓、侍中の閭丘弘、陳光、趙代、施延、太中大夫の朱?、第五頡[3]、中散大夫の曹成[4]、諫議大夫の李尤、符節令の張敬、持書侍御史の?調、羽林右監の孔顕、城門司馬の徐崇、衛尉守丞の楽?、長楽、未央厩令の鄭安世ら十数人で結託し、ともに鴻都門に詣でて太子に過ちがないことを証しした。?調は法律に基づいて、王男、?吉の犯罪に皇太子が連座されるべきでないことを明らかにした。帝と側近はこれを憂え、中常侍が詔を奉って群臣を脅していった。
「父子が一体であるのは天性の自然であり、義によって恩を分けることで、天下をつくりあげる。歴、諷は大典を識らずして群小どもと騒ぎを起こしているが、外見は忠直に見せながら、内心は後の利益を望み、邪を飾り義に違おうというのは、主君に仕える礼といえるだろうか? 朝廷はひろく言論の道を開いているし、故にあらゆることに寛容であるが、もしまだ迷いを抱き続けるのならば、刑罰がそれを明らかにするだろう」
諌めた者たちはみな色を失い、薛皓は叩頭して「もとより詔の通りにすべきでありました」と態度を変えてしまった。来歴は憤って薛皓に「ともに諫言をしていながら、今更それに背くというのか?大臣として朝廷の車に乗り、国事を預かりながら、よくもまあこのように意見をころころと変えられたものだ!」と詰め寄った。