来国光
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出典検索?: "来派" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年8月)

来派(らいは)は、日本刀刀工の流派の一つで五箇伝のうち山城伝に属する。鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて山城国(京都府)で活動した。主な刀工に国行、国俊(二字国俊)、来国俊、来国光、来国次らがいる。
概要

山城国では古くから日本刀の製作が行われていた。在銘の作刀が残る刀工としては最古に属する三条宗近は永延年間(987 ? 988年)頃の人と伝え、鎌倉時代初期には粟田口派が出現した。来派はこれよりやや遅れて鎌倉時代中期から作例を見る。観智院本「銘尽」によれば、来派は高麗(朝鮮)からの帰化人を出自とするという。一派の祖は国吉であるとされるが、現存確実な作刀はなく、国行が一派の実質的な祖とみなされている。本項に掲げる「国行」「国俊」「国光」「国次」が特に著名な刀工であるが、他に、光包、了戒等がいる。また、南北朝前後に九州菊地へ移住したと伝わる「国村」を祖とする延寿派を始め、摂津の中島来一派等、来派の鍛刀技術は各地へ広まった。地方へ移住した一派の中で最も名品が多い「延寿派」は、大正の27代末孫延寿国俊まで門跡を残す。
作風の特徴

体配 - 太刀、短刀が多く、薙刀、剣をまれに見る。太刀は鎌倉中?末期の姿となる。細身の作もあるが、総じて身幅広く、反り高く、中切先が猪首となった姿のものが多い。反りは、刃長の中程に反りの中心がある鳥居反り(輪反り、京反り)となるものが典型的だが、国行などには踏ん張りがつき、腰反りとなるものもある。短刀は長さ尋常で重ね厚く、身幅狭く、フクラ枯れ、鋭いものとなる。振袖茎(なかご)も見る。ただし、来国次などには寸延びの短刀(平造り脇指)も見る。

地鉄 - 小板目肌良く詰み、細かな地沸が一面につく。沸映りが見られるのもこの派の特色である。なお、鍛えの弱い肌が片面、もしくは両面の一部に現れることが多く、これを「来肌」と称して鑑定上の見所とされている。

刃文 - 直刃(すぐは)、あるいは直刃に小乱や小丁子を交えるものを基本とする。備前伝と比較して、刃縁の沸が強い。匂口深いものと匂口締まりごころのものがあるが、いずれも足、葉など刃中の働きの盛んなものである。帽子は直ぐに小丸、あるいは乱れ込み掃き掛けて小丸に返るものなど。

なお、上述は来派の一般的な作風であり、南北朝期にかかると思われる来国光、国次の作品には、相州伝の影響を受けたと思われる、乱れ刃や沸の働きの強いものも見られる。
刀剣用語の補足説明


沸(にえ) - 刃文を構成する鋼の粒子が肉眼で1粒1粒見分けられる程度に荒いものを沸、1粒1粒見分けられず、ぼうっと霞んだように見えるものを匂(におい)と称する。沸も匂も冶金学上は同じ組織である。沸と同様のものが地の部分に見えるものを地沸と称する。

映り(うつり) - 地の部分に刃文とほぼ平行して影のように見えるもので、備前刀の特色であるが、他国の作刀にも見られる。

足、葉 - 地と刃の境から刃縁に向かって延びる短い線状のものを足、同様のものが刃中に孤立しているものを葉という。

匂口 - 地と刃の境目が線状に細く締まっているものを「匂口締まる」と言い、その他作風によって「匂口深い」「匂口沈む」「匂口うるむ」等と表現する。

帽子 - 切先部分の刃文のことで、流派や刀工の個性が現れやすく、鑑賞、鑑定上も見所となる。

以下に主な刀工の作風と代表作について記載する。
国行
概要

鎌倉時代中期の刀工で生没年不詳[1]。来派の実質的な祖である[1]

現存作は太刀が多く、短刀はほとんど見かけない[1]。銘字は「国行」2字に切り、「来」字を冠しない[1]

作刀の体配は、鎌倉時代中期特有の、腰反り高く、幅広で、切先は中切先が猪首(いくび)となったものが多いが、やや細身の作もある[1]。刃文は、国宝の太刀のように直刃を基調に丁子を交えるものと、佐野美術館蔵の太刀(重要美術品)のように丁子乱れ主体のものとがある。
作品
国宝


太刀 銘国行(号 明石国行)(日本美術刀剣保存協会)身幅広く、腰反り高く、中切先の鎌倉時代中期特有の体配であるが、国行の作中ではやや細身に属する。地鉄は小板目つみ、やや肌立ち、刃文は広直刃調に丁子を交え、刃中の働きが盛んなものである。明石松平家伝来のため「明石国行」の異名を持つ。茎は生ぶで雉股形となり、茎尻に手抜き緒通しの孔があり、貴重である。

重要文化財


太刀 銘国行(静岡・
久能山東照宮

太刀 銘国行(静岡・久能山東照宮)

太刀 銘国行(愛知・徳川美術館

太刀 銘国行(岡山・作楽神社

太刀 銘国行(愛媛・伊佐爾波神社

太刀 銘国行(個人蔵)1931年指定

太刀 銘国行(個人蔵)1935年指定

太刀 銘国行 1937年指定、第二次大戦後連合国軍により接収され、以後所在不明。

太刀 銘国行(個人蔵)1941年指定

太刀 銘国行(刀剣ワールド財団[2])1952年指定

刀 伝国行(国立歴史民俗博物館)1954年指定

刀 伝国行(東京・吉祥寺)1952年指定

刀 伝国行(個人蔵)1956年指定

刀 伝国行(個人蔵)1961年指定

国俊
概要

国行の子とされる国俊には「国俊」と二字銘に切る者と、「来国俊」と三字銘に切る者がおり、古来、同人説、別人説があるが、作風の違いから両者を別人と見る説が有力である。銘を「国俊」と切る刀工を、「来国俊」と区別する意味で「二字国俊」と通称する。「二字国俊」の作は来国俊の作に比べ、猪首切先で豪壮な作が多い。弘安元年(1278年)銘の太刀があり、おおよその作刀年代が知られる。小太刀もあり、徳川美術館所蔵の「名物 鳥養国俊」(重要美術品)は出来優れる。
作品
重要文化財


太刀 銘国俊(
東京国立博物館)有馬家伝来で、国俊作中最も豪壮な作である。

太刀 銘国俊(個人蔵)1933年指定

太刀 無銘伝国俊(三重・合資会社苗秀社)

刀 伝国俊(刀剣ワールド財団蔵[2])1941年指定

刀 伝国俊(所在不明)1941年指定、『国宝・重要文化財大全』に写真なし

刀 額銘国俊(個人蔵)1953年指定

短刀 銘国俊(名物 愛染国俊)(法人蔵)

文化庁による所在確認調査の結果、所在不明とされた物件については「所在不明」とした[3]
来国俊
概要

鎌倉時代末期の刀工。国行や二字国俊に比べ、細身の穏やかな作が多い。来国俊以降、短刀の作を多く見る。刃文は直刃を主体とし、乱れ刃の作でも小丁子、小互の目を主とした穏健な作風のものが多く、大模様の乱れ刃の作はまず見かけない。現存作は太刀、短刀ともに多く、薙刀や剣もある。正応から元亨(1288 ? 1324年)に至る在銘作があり、この間同名2代があるとする説もある。徳川美術館には「来孫太郎作」銘の太刀があるが、銘振りから「来孫太郎」は来国俊の通称とされている。
作品
国宝


太刀 銘来国俊(個人蔵)細めの太刀で、小丁子に小互の目(こぐのめ)を交えた乱れ刃の作。庄内藩家老、菅家伝来。

小太刀 銘来国俊・黒漆蛭巻太刀拵(
二荒山神社

短刀 銘来国俊 正和五年十一月日(熱田神宮)1316年

短刀 銘来国俊(黒川古文化研究所

太刀 銘来孫太郎作 /(花押)正応五年□辰八月十三日(以下不明)(徳川美術館

重要文化財


太刀 銘来国俊 永仁五年三月一日(号 蛍丸) - 第二次大戦後連合軍により接収され、以後所在不明。写真なし。

太刀 銘来国俊 正和二二年十月廿三日□□歳七十五(愛知・徳川美術館)

太刀 銘来国俊 元応元年八月日(個人蔵)

太刀 銘来国俊(紀州東照宮

短刀 銘来国俊(奈良・談山神社

薙刀 銘来国俊(個人蔵)

来国光

鎌倉時代末期から南北朝時代の刀工。来国俊の子とされる。太刀姿は切先が延びた南北朝時代の作風を示すものが多く、来国俊よりは豪壮である。作域は広く、来派伝統の直刃主体で小沸出来のものと、乱れ刃主体で沸の強い作とがあり、後者は正宗などの相州伝の影響を受けたものとされる。現存作は太刀、短刀ともに多く、短刀の方に沸の強く覇気のある作風が見られる。年紀ある作刀は嘉元2年(1327年)から、元徳貞和を経て観応2年(1351年)に及ぶ。このうち、貞和・観応の作は銘振りの相違などから2代目の作とする説もある。


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