条野 採菊(じょうの さいぎく、1832年9月24日(天保3年9月1日) - 1902年(明治35年)1月24日)は、幕末から明治中期の、東京の、戯作者・ジャーナリスト・実業家・作家・劇評家。本名は条野伝平。号に山々亭有人(さんさんていありんど)・採菊散人・朧月亭・朧月亭有人・弄月亭有人など。鏑木清方の父。條野とも書く。 家は日本橋長谷川町(現・日本橋堀留町2丁目)の地本問屋だった。本郷三丁目の呉服屋伊豆倉の番頭を務めるかたわら、17歳頃から五代目川柳こと水谷緑亭に弟子入りし、頭角をあらわした。伊豆倉の顧客の老中阿部正弘に文才を認められて可愛がられ[注釈 1]、また、年長の戯作者、松亭金水・梅亭金鵞・仮名垣魯文らと交わった。 三遊亭円朝や河竹其水も会員の三題噺の会『粋狂連』を、魯文と組織し、1863年(文久3年)、共輯の『酔興奇人伝』[2]を出版した。 1860年(万延元年)(28歳)、人情本『春色恋廼染分解』(しゅんしょくこいのそめわけ)[3]を上梓した。 合巻も書いたが、為永春水・松亭金水・染崎延房と下る人情本の系列の人だった。 1868年(慶応元年)4月(36歳)、福地源一郎創刊の『江湖新聞』に広岡幸助・西田伝助と参画したが、佐幕的編集のゆえに翌月廃刊を強いられた。1869年の『六合新聞』も、第7号で終わった。 1872年(明治5年)3月、西田伝助、落合幾次郎と、東京初の日刊紙、『東京日日新聞』を発刊した。その4月、三条の教憲が出たときは、『今後真面目に書く』旨の答申書『著作道書キ上ゲ』を魯文と提出した。以降、東京日日新聞を編集発行するかたわら、『近世紀聞』(初編)・『東京町鑑』・『和洋奇人伝』など、固い本を出した。 1880年(明治13年)から東京府会議員を務めた。 1884年(明治17年)10月(52歳)、西田伝助と、東京日日新聞社から『警察新報』紙を発刊したが[4]、部数が伸びなかったので、代わりに1886年10月、娯楽主体の『やまと新聞』を創刊し、作品を連載した。1889年には『新小説』の創刊に関わり、そこに創作を載せもして、作家に復帰した。 1889年(明治22年)(52歳)から神田区会議員、1892年から神田区会議長だった。その11月、三遊亭円朝・五代目尾上菊五郎・三遊亭円遊・田村成義らを集めて、百物語を主宰した[5][6]。 歌舞伎の台本も書いた。新聞社の劇評家仲間の長老で、1890年、東京日日の新人記者の岡本綺堂が、採菊に面倒を見て貰ったと言う挿話がある[7]。採菊には、嘗ての職場の新米記者だった。 『やまと新聞』社長を辞した翌1902年(明治35年)、心臓衰弱により没した。70歳。『清高院晋誉去来採菊居士』。墓は谷中霊園にある。 妻(鏑木)婦美との間に三人の男子を得た。長男は官吏、次男は商人だった。三男が鏑木清方である。 西欧の小説の本も出したが、採菊は外国語を解さなかったので、それらは福地桜痴の翻訳を下敷きにしたと想像されている[8]。 行末の ( ) 書きは、出版の西暦年次、或いは年月日。
生涯
主な文業
原著
『春色恋廼染分解』(人情本)、文鱗堂(1860)
『池園物語』(合巻)、板元不詳、(1862)
『源平桜の五所染(しろくれない --)』(合巻)、片ばみ屋米次郎(1863)
仮名垣魯文と合輯:『酔興奇人伝』、寶善堂(1863)
『春色江戸紫』(人情本)、板元不詳、(1864)
『近世侠義伝』、伊勢屋喜三郎(1865)
『三人於七花暦封文』(合巻)、板元不詳、(1866)
『春色玉襷』(人情本)、板元不詳、(1868)
明治維新
『鶯塚千代廼初声 2 - 4編』(人情本)、片ばみ屋米次郎(1869)
『唐詩作加那(とうしざかな)、金松堂(1869)
『漢語都々逸』(学習書)、松林堂(1870)
『漢語図解』(語学習書)、文玉堂ほか(1870)
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