この項目では、日本酒の職人について説明しています。漢姓の杜氏については「杜 (姓)」を、中国三国時代の人物については「杜氏 (三国時代)」をご覧ください。
杜氏(とうじ、とじ)とは、日本酒の醸造工程を行う職人、およびその集団や統率者を指す。
名称の由来
刀自説
現在のところ最有力説。杜氏は元々、刀自(とじ)という文字が宛がわれていた。刀自とは、日本古語では戸主(とぬし)といい、家事一般をとりしきる主婦のことを指し、働く男を指したという刀禰(とね)の対語にあたる。東南アジア各地には、煮た穀物を口で唾液と共に噛み潰し、空気中から野生酵母を取り込んで発酵させて酒を造る、いわゆる口噛みの酒という原始的な醸造法が広く存在した。初期の日本酒もその一種であったことが『大隅国風土記』にうかがえる(参照:日本酒の歴史-上古時代)。こうした製法の時代に、酒造りは女性の仕事であったと考えられている。やがて朝廷の造酒司(みきのつかさ)において酒が造られていた飛鳥時代以降にも、酒部にはまだ女性も含まれていたが、時代を下るにつれ酒造りは次第に男性の仕事になっていった。それでも職名には「とじ」の音だけが受け継がれたとする説である。
杜康説
古代中国では儀狄(ぎてき)と杜康
日本酒醸造は上代以前にまで遡る長い歴史がある。その頃は上記「刀自説」にあるように、各集落の女性が酒を造る役割を負っていた。
時代が下ってくると朝廷による酒造りが営まれるようになり、飛鳥時代には朝廷に造酒司(みきのつかさ)という部署が設けられた。そこでは酒部
(さかべ)と呼ばれる、今でいうなら国家公務員のような地位を与えられた専門職が酒造りを担当していた。しかし同じ醸造技術者ではあっても、流派ごとの技法の違いや、集団としての制度などを考えると、後世の杜氏の直接的起源とは言いがたい。酒造りの舞台は朝廷から仏教寺院へと移り、醸造についての専門知識を備えた僧たちが僧坊酒を造るようになった。この僧たちは造酒司の酒部とは異なり、菩提?に代表されるようなそれぞれの寺院の味や造り方を分化させていったため、のちの杜氏集団の流派の原型と見ることもできるが、集団としての制度など考えると、後世の杜氏とは直接的なつながりはない。
やがて、酒部の子孫を自称する人々や、その遠縁にあたる者などが、朝廷や寺院とは関係のないところで酒を造り始めた。このような、今日でいう「民間」の醸造技術者のことを酒師
(さかし)といい、また酒を造り販売した店を造り酒屋(あるいは単に「酒屋」とも。区別については「酒屋を参照)という。鎌倉時代や室町時代には、京には造り酒屋が隆盛し、京の以外の地方でも他所酒(よそざけ)といって、越前の豊原酒(ほうげんざけ)、加賀の宮越酒(みやこしざけ)、伊豆の江川酒(えがわざけ)など、現在の地酒の原型となる地方色豊かな銘酒が造られていた。しかしながら、彼ら酒師たちは、後世の杜氏集団ほど階級化・組織化されておらず、むしろ酒造りの仕事は、上下に階級化されるよりも、水平に幅広く分業化されていた。
文安の麹騒動(1444年)以前は、現在では完全に杜氏集団のなかの仕事である麹造りについても、まだ酒造りの職人集団の仕事ではなく、造り酒屋の仕事ですらなかった。なぜなら、それは麹屋という、麹造りを生業とする別の業界の店へ外部発注に出していたからである。したがって、後の杜氏集団の中における麹師(もしくは麹屋などとも)の役職は、この頃は杜氏集団に属していなかった。
江戸時代に入ってからもしばらくは、地方によっては江戸時代後期まで、中央から招いた醸造技術者に対しては「杜氏」よりも「酒師」「麹師」という呼称が一般的であった。 現在の杜氏や蔵人の制度の直接的な起源は江戸時代以降となる。杜氏の発生の前提として、まず日本酒の産業革命ともいうべき、鴻池善右衛門による大量仕込み樽の技法が慶長5年(1600年)に開発されたこと、さらに、幕藩体制が敷かれ、各地方において農民と領主の関係が固定したことの二つが挙げられる。 概して土地が乏しく夏場の耕作だけでは貧しかった地方の農民が、農閑期である冬に副収入を得るべく、配下に村の若者などを従えて、良い水が取れ酒造りを行なっている地域、いわゆる酒どころへ集団出稼ぎに行ったのが始まりである。
江戸時代
北陸や東北地方の諸藩では、領民の貧窮を救済するために、摂泉十二郷や灘五郷など酒造りの先進地域から酒師(さかし)や麹師(こうじし)といった技術者を藩費で招聘し、御膳酒などを造らせ、その醸造の現場へ地元の農民を派遣して技能を習得させ、やがては領民だけの力で藩造酒(はんぞうしゅ)の生産が可能になるよう図った。杜氏集団のなかでは南部杜氏などがこのパターンにあたる。さらに、領民の間から醸造技能に優れた者が輩出すると、大坂の蔵屋敷などを通して先進地域への出稼ぎ先を斡旋したりと、藩をあげて杜氏集団と蔵元地域とのつながりを強化しようとしたところも多い。
銘醸地の聞こえ高い灘も、元々は農業だけでは生活できない貧しい村々であったが、寛政年間あたりから灘酒の評判はつとに高まり、彼ら農民は高給を以って酒師として各地へ招聘されるようになった。これは灘からみれば一種の頭脳流出であった。灘酒の生産量の増大などによって、やがて灘のなかでは人手が不足し始め、これを補う形で播磨や丹波から出稼ぎ人が集められるようになった。なかでも丹波からの杜氏集団は灘の蔵元たちと深い関係を結ぶにいたり、天保年間(1830年 - 1844年)には灘の蔵元はほとんど丹波杜氏で占められるようになった。
各地の藩造酒は、幕府の酒造統制に翻弄され、それぞれ時代とともに衰滅や復活など多様な経緯をたどりながら江戸時代末期まで続いていくが、最終的にほとんどの藩造酒は藩の財政逼迫を救うほどには成功はしなかった。
それでも、今日までに各地で微妙に造りと味が異なる流派が形成された事実に鑑みるに、会津藩から会津杜氏、秋田藩から山内杜氏、南部藩から南部杜氏が出たように、当時の藩のバックアップが結果的に二百年近くの歳月を隔てて現代に実を結んでいることになる。
各地の杜氏集団のうち、南部杜氏、越後杜氏、丹波杜氏を「日本三大杜氏」と呼ぶこともある[1]。 明治時代に政府が醸造業の近代化を図ると、杜氏集団もそれに見合うように組織を改編していった。酒蔵が多い地方には、杜氏集団の出先機関のようなものを設置し、杜氏の空きのポストが出ると、すぐに同じ流派から次の杜氏が入って、その蔵の酒造りが途絶えないように、そして、その蔵の味が変わらないように斡旋や仲介を施した。 また、それぞれの杜氏集団も杜氏組合を設立し、雇用の安定や情報交換の場を持つようになった。 日本が近隣諸国に植民地を拡大した昭和初期には、いわゆる外地(本土以外の地域)で日本酒を製造できる人材の需要が非常に高く、多くの流派はそういう地へ杜氏や蔵人を派遣した。特に杜氏は人的需要が間に合わず、出張という形で各地の酒蔵を転々とし、現地の人材を指導して回ったりしていた。朝鮮、満州、台湾が主な行き先であったが、遠くシンガポールやブラジルにも派遣された。
明治時代以後