杜の都
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この項目では、雅称について説明しています。

類似の呼称については「森の都」をご覧ください。

曲については「杜の都 (曲)」をご覧ください。

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勾当台公園付近から見た、仙台・青葉まつりの「時代絵巻巡行」パレード中の東二番丁通2012年5月)定禅寺ストリートジャズフェスティバル in 仙台における定禅寺通のステージの1つ(2009年9月)

杜の都(もりのみやこ)とは、宮城県仙台市雅称および愛称である。「杜の都・仙台」として知られる。

2008年平成20年)時点で発見されている文献による初出年は、仙台を「森の都」と記したのが1909年明治42年)、「杜の都」と記したのが1916年大正5年)である[1]1970年昭和45年)9月22日に市が制定した「公害市民憲章[2]」に「杜の都」と記されて以降、市は同表記を公文書における統一表記として用いている[3][4]
「社」と「杜」と「森」

漢和辞典での説明漢字読み意味
シャ()1. 土地の神。神を祭る施設。
2. 人々の集団。社会
3. 「会社」の略。
やしろ
音ズ(
ト(漢)1. 山野に自生する落葉果樹
2. ふさぐ。とじる。
訓もり神社境内の木立。
音シン(漢呉)1. 多数の樹木が生い茂る場所。
(その他の意味は省略)
訓もり

木偏の「」の音読み呉音で「ズ」(ヅ)、漢音で「ト」であり、中国古来の意味では山野に自生する落葉果樹ヤマナシコリンゴなど)を指すことはあっても「もり」の意味はない。訓読みには「もり」「やまなし」「ふさ-ぐ」があるが、「もり」は国訓とされる[5]。一方、示偏の「」の訓読みには「やしろ」のほかに「もり[† 1]」もあったが、平安時代以降、示偏の「社」を「やしろ」、木偏の「杜」を「もり」と使い分けるようになった[5]。このため、「杜(もり)」は神社の「鎮守の森」「ご神木」を意味するともされる。

しかし、「もり」という訓読みが共通する同訓異字の「」と「杜」とは古くから混用されており、例えば鎌倉時代には地名であっても書き分けられていない[1]。また、「杜の都」という表記の初発とみられている1916年大正5年)発行の『仙台繁盛記』(富田広重 著)の中で、同じ著者が「森の都」と「杜の都」の両方を使用しているため、明治期に生まれた「森の都」という名称を、著者が意味の違いを意識して大正期に「杜の都」に書き換えたという説明も成り立たない[1]

1970年昭和45年)に「公害市民憲章」を制定したのを機に、仙台を指す場合は「杜の都」が公式表記と定められた[3]。これ以降、仙台市役所により「杜」と「森」とは意味が異なるとされ、「杜」は江戸時代から仙台の人々が植え育ててきた屋敷林街路樹などの人工林を指し、それらが仙台の風土や歴史に立脚しているという説明がなされてきた[6]
歴史
江戸時代の植林

伊達政宗による仙台開府以前、この土地は「宮城野」と呼ばれており、仙台平野には木がほとんどなかったと言われている[7]。現在の仙台市の中心市街地に当たる部分も、城下町が建設される以前はススキヨシが生い茂る草原だった[8]

城下町が造られると、その中の武家屋敷において植林が行われて屋敷林が形成された。武家屋敷は広大な敷地を持ち、屋外空間が広く取られていた。例えば、昭和初期に行われた調査では、とある仙台の中級家臣の旧邸宅は、敷地に対する家屋の面積は7パーセントだった[9]。仙台藩は継ぎ木を分け与えるなどして、家臣に植樹を奨励した。武家屋敷の敷地に植えられた樹種は、主にスギマツキリカキノキナシクワクリなどである[10]。果樹は食料として利用され、屋敷林は武士による生産活動の場だったとされる。また、これとは別に、郊外の神社仏閣でも境内や参道、敷地の辺縁で植樹が行われた[9]

このような城下町での植林は仙台に限ったことではなく、日本各地の城下町で一般的に行われていた。ただ、仙台の城下町は、元禄年間(1688年から1704年)において城下町における武士の比率が8割に達するなど、他の城下町と比べて武士の割合が高く[11][12]、また、城下町の屋敷林、郊外の寺社の並木、周辺の丘陵地と続く樹林の連続性という特徴を持っていた[11]
明治から戦中まで

明治時代になり武士の世が終わると、一部の武家屋敷は分割されたり借家に転用されたりしたが、多くは住宅としてそのまま継承され、屋敷林も維持されていた[13]。この時代に仙台を訪れたフランス人宣教師のジャン・M・マランは、仙台市街の樹木が多い景観について、その印象を記録に書き留めている[14]。この頃の仙台では、武家屋敷に住んでいた資産家が、その敷地に芝生を張ったり庭石や灯篭を置いたりして庭園をたしなみ、割烹や料亭においても接遇のために庭園が重要視された[10]。また、広瀬川を見下ろす位置に設置された桜ヶ岡公園は、旧武家屋敷からの屋敷林を引き継ぎ、桜や梅などを加えて整備された。街路樹の整備も行われ、1885年明治18年)に仙台城の大手門から大橋まで、松や杉、桜の並木が造られた。1887年(明治20年)に日本鉄道が仙台まで路線を伸ばし仙台駅が設置されると、駅前通となった南町通1891年(明治24年)に桜が街路樹として植樹された[15]

鉄道が仙台まで延びたことで、仙台を紹介する観光案内書が発行されるようになる。1890年明治23年)刊行の『仙台案内』には市街地の緑が豊かであることが書かれている。1907年(明治40年)に荒川偉三郎が『松島志を李』において、仙台市街地南部の向山から見た仙台の町の様子を「深林の都」と表現し、その2年後、荒川は『仙台松島塩竈遊覧の栞』において「林巒西北に綬り、平野東南に開け、河渠市街を貫流し、樹木各所に繁茂し、常に気は澄み翠は滴りいわゆる都会の紅塵を見ず。故に森の都と称す。」と記し、ここに森の都という言葉が生まれた[16][17][18]


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