むらにし とおる
村西 とおる
別名義草野 博美
生年月日 (1948-09-09) 1948年9月9日(75歳)
出身地 日本・福島県いわき市
職業AV監督・実業家
ジャンルアダルトビデオ
配偶者乃木真梨子
公式サイト村西とおる OFFICIAL WEBSITE
村西 とおる(むらにし とおる、1948年〈昭和23年〉9月9日 - )は、日本のAV監督、実業家。福島県いわき市出身[1]。本名は草野 博美(くさの ひろみ)[2]。
ポルノ雑誌の販売などを手がけたのち、アダルトビデオの制作プロダクションを設立[3]。自らカメラを回しながら男優としても出演するスタイルで注目を浴び、草創期のアダルトビデオ業界で多数の作品を制作して大きな成功を収めた[3]。
選挙の落選、数度の逮捕、事業の失敗などを繰り返して路頭に迷った後に、晩年において自らの人生を書籍化・ドラマ化して大ヒットを記録するなど、その波乱万丈の人生が話題となった。 福島県立勿来工業高等学校卒業後、1967年に上京し池袋のバーでボーイとして働き始める。 いくつかのバーを転々としたのち、東京にあった英語の百科事典販売会社「グロリア」でセールスマンとなる[3]。グロリアが販売していたのは全30巻で20万円(現在の貨幣価値で100万円近く)という高額な百科事典セットで、しかも内容はすべて英語で書かれている英英辞典だった。月に4セット売れればトップの営業成績とされるところを、村西は毎月20?100セットを売り上げ、伝説的なセールスマンとなった[3]。 このときの蓄えをもとに1972年には札幌で英会話教室を始める。米軍の脱走兵を講師として安く雇用した。1978年には北海道全域の自衛隊駐屯地近辺にテレビゲーム機を置いた喫茶店チェーンを展開し、これも大きな成功を収めた[3]。 1980年には、当時「ビニ本」と呼ばれていたポルノ雑誌の小売店チェーン「北大神田書店」グループを立ち上げ、北海道全域に48店舗で開業したのち全国へ展開した。グループの命名は、「北海道大学と東京の古書店街・神田という権威ある2つの名前をくっつけた」という[3]。全盛期の頃、札幌東警察署の隣に店舗を出店していたことを村西本人が明かしている[1]。 これと並行して写真のモザイクをなくした違法なポルノ雑誌(裏本)の制作と販売を始め、北大神田書店の全国流通ネットワークで売りさばいた[3]。原価200円の裏本が1万円超で飛ぶように売れ、年商20億円に達していたとされる[3]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}これは現在でいうと、物価指数からすると年商30億、日本の経済規模GDPからすると40億、に相当する。[要出典] 1982年には写真集・著名人の伝記などを手がける出版社「新英出版」を創業する[3]。これも「出版社の最大手、新潮社と集英社」の名前をつなげた命名である[3]。写真週刊誌『スクランブルPHOTO』を創刊(編集長は本橋信宏)、やはり自前の流通網で販売している。またこのころ、アメリカの人気ポルノ女優アネット・ヘブンを日本へ招いてポルノビデオを監督・制作している[3]。 この間に村西の「裏本」流通ネットワークは全国に広がり、複数の県警から猥褻図画販売容疑で指名手配されたのち、1984年3月に逮捕された(後に懲役1年5か月、執行猶予4年の有罪判決が確定)[3]。北大神田書店グループは解体され、全財産を失う。 北大神田書店グループが解散し、1984年秋に保釈。このころ個人用のビデオデッキが急速に普及し始め、アダルトビデオが人気を集めるようになっていた。村西もビデオ制作へ転身することを決意し、逮捕・保釈まで村西を支えてきた「ビニ本」制作プロダクション(後のクリスタル映像)社長の名前「西村」をもじって「村西」、この名前が世の中に通るようにと「とおる」という名前をつけ、以後「村西とおる」を名乗るようになった[3]。 村西は、監督をつとめる作品に自らカメラをかついで男優としても出演するスタイルが注目を集めたほか、また「疑似本番」が当然だった当時の日本のポルノ制作現場で、男優と女優が実際に性交する場面を正面から撮影する手法がたびたび物議をかもした。1985年11月に発売したドキュメント路線の立川ひとみ 1986年10月に村西が監督・男優をつとめた『SMぽいの好き』で黒木香をデビューさせる。
略歴
百科事典のセールスマン
北大神田書店グループ時代
クリスタル映像時代