村田 諒太住之江競艇場のトークショーにて
(2017年12月23日)
基本情報
本名村田 諒太
通称黄金の拳
階級ミドル級
身長183cm[1]
リーチ190cm[1]
国籍 日本
誕生日 (1986-01-12) 1986年1月12日(38歳)
出身地奈良県奈良市
スタイル右ボクサーファイター [2]
プロボクシング戦績
総試合数19
勝ち16
KO勝ち13
敗け3
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獲得メダル
日本
男子 ボクシング
オリンピック
金2012 ロンドンミドル級
世界ボクシング選手権
銀2011 バクーミドル級
インドネシア大統領杯
金2011 ジャカルタミドル級
アジア選手権
銅2005 ホーチミンミドル級
村田 諒太
YouTube
チャンネル
村田諒太channel VILLAGE FIELD
村田 諒太(むらた りょうた、1986年1月12日 - )は、日本の元プロボクサー。奈良県奈良市出身。ロンドンオリンピックミドル級金メダリスト。元WBA世界ミドル級スーパー王者。帝拳ボクシングジム所属。オリンピック金メダルとプロ世界チャンピオンの両方達成した初の日本人ボクサー[3]。血液型AB型[4]。
マッチメイクは帝拳プロモーションとトップランク社が担当している。トレーナーはプロ転向当初はイスマエル・サラスだったが、田中繊大とホルヘ・リナレスの弟であるカルロス・リナレスが務めている。入場テーマ曲は映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』のテーマ曲である「He's a Pirate(彼こそが海賊)」。 両親が共に公務員の家庭に3人兄弟の末っ子として生まれた[5]。小学校6年生の時に両親が離婚(ただし両親は離婚後も同居中である)、村田は当時のことを「崩壊した家庭環境が辛くて嫌でたまらなかった」と振り返っている[5]。 5歳から水泳に親しみ、奈良市立伏見中学校では陸上部に所属。1500メートル走で奈良市大会4位の成績を残すが長続きしなかった[6]。家庭の事情もあり、喧嘩をするなどすさんでいた村田が金髪で登校したところ、当時の担任であった北出忠徳教諭に視聴覚室に連れ込まれ「お前、何かやりたいことはないんか?」との問いに、村田が「ボクシングやったら、やるわ」と答えたことがボクシングを始めるきっかけとなった[5]。北出の手配で、その週末から地元の奈良工業高等学校(現奈良県立奈良朱雀高等学校)のボクシング部(当時の主将は名城信男)が主催する週末ボクシング教室に通いはじめる[7][8]。ロサンゼルスオリンピック日本代表で同校ボクシング部監督の高見公明によれば、当初から陸上競技仕込みのスピードがあったが、パワーは後の練習で身についたものだという[9]。しかし練習が辛く、わずか2週間ほどで行くのをやめてしまう。その後、再び奈良工業高等学校のボクシング練習に顔を出すようになるものの2ヶ月ほどで足首を負傷し、以降二度と練習に顔を出さなくなる[5]。中学校3年生から大阪の進光ボクシングジムでトレーニングを始める。授業にほとんど出ていなかったこともあって勉強は不得意で中学3年生時の通信簿は「1」と「2」だけであった[5]。 南京都高等学校に進学[8]、高校初戦は黒星スタートであったが徐々に頭角を現し、高校2年時で選抜・総体・国体の高校3冠を達成。また3年時でも選抜と総体を制して高校5冠を達成し、最後の国体で粟生隆寛に次ぐ史上2人目の高校6冠の達成がかかっていたが、2府4県が団体戦により3枠を争う国体近畿予選で村田自身はミドル級で優勝するも京都チームが団体戦4位に留まり(大阪・兵庫・奈良が全国に進出)、国体出場を逃す。国体に出られなくなった代わりに全日本選手権に参戦するも、決勝で佐藤幸治に1回RSC負けに終わる。 卒業後は東洋大学経営学部経営学科へ進学しボクシング部に所属。2004年に全日本選手権初優勝[10]。 2005年にはキングスカップに出場、前年のアテネオリンピックミドル級銅メダリストでムエタイで魔裟斗に勝ったこともあるスリヤー・ソー・プルンチットに決勝で敗れ、銀メダルを獲得[5]。同年、ホーチミン市で開催されたアジア選手権にミドル級(75 kg)で出場し銅メダルを獲得[10][11]。同年、中華人民共和国の綿陽市で開催された2005年世界ボクシング選手権大会にミドル級(75 kg)で出場するが1回戦で敗退した[12]。 2006年にはドーハで開催されたアジア大会代表に選ばれるが1回戦でアテネオリンピック、ウェルター級金メダリストのバクシャー・アルタエルに5-24で敗退する。アルタエフとは半年後のキングスカップで再戦するが再び敗退した[5]。 2007年には世界選手権にミドル級(75 kg)で出場するも2回戦でショーン・エストラーダに敗退した[13]。同年の全日本選手権では2度目の優勝を収めたが[10]、2008年1月のオリンピック・アジア1次予選で準決勝敗退、3月のオリンピック・アジア2次予選でも初戦敗退[14] して北京オリンピックの出場権を獲得できなかったことで現役生活からの引退を決めた。
来歴
学生時代