村田武雄
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この項目では、脚本家映画監督について記述しています。音楽評論家の同名の人物については「村田武雄 (音楽評論家)」をご覧ください。

村田 武雄(むらた たけお[1]、(1908年明治41年)[2][3][注釈 1]6月17日[2][注釈 2] - 1994年平成6年)7月19日)は、日本の脚本家映画監督東京品川出身[1][3]

重宗務東京発声映画製作所代表取締役社長)は義兄。
来歴

品川生まれ[2]日本大学文学部中退[2][1]

1934年4月1日日活多摩川撮影所に入社[2][1]。「脚本部」に配属される[1]

1935年3月、義兄の重宗が「東京発声映画製作所(東京発声)」を設立し、所長となる[1]。村田もこの「東京発声」に移籍、重宗務、阿部豊豊田四郎助監督を務める[2][1]

1937年、 村田の所属する「東京発声」が東宝映画と統合。

1940年、豊田監督の『大日向村』、『奥村五百子』のB班監督として、満州ロケを行う。その他、短編映画を何本か監督。

1941年、『大地に祈る』で映画監督に昇進[2][1][3]

1942年、「東京発声」が東宝に吸収され、村田も東宝へ移籍[1]。戦時体制の中、助監督をしばらく務める。

この後、陸軍航空本部嘱託となり、南方前線で、飛行機の活躍状況の記録映画制作に従事。シンガポール、パレンバン、ジャワなどを歴訪する。戦地記録映画『大空の御盾』を制作するが、遺族への試写のみで未公開に終わる[4]

1944年、帰国。『加藤隼戦闘隊』(山本嘉次郎監督)で、山本から請われ、飛行機記録映画のシーンを劇中に提供する[4]

1953年、日本初の立体映画(トービジョン)、『飛び出した日曜日』 の脚本・監督を担当する[2][3][5]

その後、脚本家へ転向[3]

1954年、日本初の怪獣映画『ゴジラ』(本多猪四郎監督)で、香山滋の検討台本を基に、本多と2人で脚本を共作[2][5]。以後、初期の東宝特撮映画の脚本を手掛けた[2]

1961年、テレビ映画『特別機動捜査隊』(NET)で脚本を担当。以後、テレビに活動の中心を移す。

1963年円谷英二に請われ、設立したばかりの円谷特技プロダクションでテレビ特撮『WOO』の企画に参加する[4]
人物・エピソード

父親が品川にあった映画館の株主だったことで、優待券を使って映画三昧の幼少期を過ごした[4]。姉が松竹キネマ蒲田撮影所の映画監督重宗務(のち和伸と改名)と結婚したのを機に、映画界入りに憧れをもつようになり、映画館に通ってノートをとり、独学で映画台本を学んだという[4]。村田が日活へ入社したのも、重宗が引き抜かれた際に誘われたことによる[4]

作品に対しては「人間を描く」ことを重視したといい、本格的な監督デビュー作の『大地に祈る』 は従軍看護婦を題材とした映画であるが、女優たちに化粧をすべて落とすよう指示し、リアリズムを心がけている[4]。書籍『ゴジラ大百科』では、『ゴジラ』での脚本について生活感が薄かった香山滋による原作に対し、村田が人間像を掘り下げていったと評している[3]

東宝移籍と同時に太平洋戦争が激化し、映画フィルムが軍の配給となって、映画は自由に撮れなくなった。このため、東宝重役の森岩雄に「いずれ陽の目を見せてあげるから、気の毒だけど助監督で我慢して」と頼まれたという[4]。戦後も脚本を書いては森のもとへ通い、教えを受けた[4]。村田は義兄の重宗と並んで、森を映画界の恩人と仰いでいる[4]

飛び出した日曜日』は『私は狙われている』(田尻繁監督)と併せ、日本初の立体映画であるが、続編の企画を思案していたところ、森岩雄に「これで東宝がアメリカ製より先に日本で立体映画を上映したと映画史に残りましたから、もういいんです。


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