村田実
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むらた みのる
村田 實
1929年の村田実
別名義国広周禄(國廣周祿)
生年月日 (1894-03-02) 1894年3月2日
没年月日 (1937-06-26) 1937年6月26日(43歳没)
出生地 日本東京市神田区小川町(現千代田区神田小川町
職業映画監督脚本家俳優
ジャンル映画舞台
活動期間1912年 - 1937年
活動内容1912年:劇団・とりで社を結成
1917年:踏路社を結成
1920年松竹キネマ研究所に参加
1923年日活向島撮影所に入社
1936年日本映画監督協会初代理事長に就任
主な作品
路上の霊魂
『街の手品師』
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村田實(むらたみのる、1894年3月2日 - 1937年6月26日)は、大正昭和初期の日本映画監督脚本家俳優日本映画監督協会初代理事長。

新劇運動から帰山教正映画芸術協会に参加、小山内薫松竹キネマ研究所で『路上の霊魂』を監督したことで知られる。洋画の手法を積極的に取り入れ、松竹の「蒲田調」に対して男性的で重厚な日活現代劇の基礎を築いた。映画監督・栗山富夫の父の従兄弟にあたる[1]
経歴
少年時代

1894年(明治27年)3月2日東京市神田区小川町(現千代田区神田小川町)に大日本図書株式会社重役村田五郎の一人息子として生まれる。当時会社が京橋にあったので、やがて銀座に引っ越すが、神田の家に士族であった農商務省鑑定官の祖父が残っていたので、銀座と神田とを行き来するようになり、父の職業の関係上読書に親しみ、また祖父の趣味・職業の関係上古美術に親しみ品評にならされて育った[2]。また敬虔なクリスチャンの家であったので幼時に洗礼を受けている[3](洗礼名「ヨゼフ」)。

1906年(明治39年)、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業し、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。中学の先輩である永井荷風を愛読し、家に芝居見物を禁止されていたため近所の洋画専門上映館錦輝館に替り日ごとに通う。この時期の錦輝館には中学の先輩である帰山教正島津保次郎五所平之助も足繁く通っている[4]。そして中学卒業前に初めて舞台を観劇し、エドワード・ゴードン・クレイグの舞台デザインに感銘を受け、演劇の道を志すことになる。家には進学を勧められたが、当時の「教育制度に反感をおこして」いた上に病気がちのため医者が進学を勧めず、卒業後は慶應義塾文科の聴講生となり、白馬会の葵橋洋画研究所へ絵を習いに通い、帝劇文芸部の給仕を経て、栗島狭衣栗島すみ子の義父)や石川木舟の書生として働いた[2]
とりで社時代

1912年(大正元年)9月、家の金を使い、ゴードン・クレイグやマックス・ラインハルトメーテルリンクなどに大きく影響を受けた演劇美術雑誌『とりで』を発行。表紙を岸田劉生、安堵久左、清宮彬、岡本帰一らが手がけ、自身も毎号カット画を描いている。三号までの刊行が大方の同種の雑誌の中で、この『とりで』は翌年10月の八号まで続いたという[5]。また同10月には新劇団・とりで社を結成。後に宝塚歌劇の演出家となる岸田辰弥舞踊家として海外で活躍することになる伊藤道郎、画家の木村荘八らが参加。築地精養軒ホールや有楽座福沢桃介邸の小劇場で公演を行い、この間に沢田正二郎小山内薫らと知り合う。しかし家の経済に負担をかけ、1914年(大正3年)に解散。河合武雄伊庭孝喜多村緑郎門下などの新劇団を転々とし下積み生活を送る。また、この間に父の事業が失敗する[2]
踏路社・映画芸術協会時代

1917年(大正6年)2月、心を新しくして青山杉作近藤伊与吉、後のドイツ語学者関口存男らと新劇団・踏路社を結成し、芸術倶楽部で長与善郎作『画家とその弟子』を公演。この時、関口の助言で、日本で初めて「演出」という言葉を使ったとされる[6]1918年(大正7年)、踏路社の仲間と帰山教正の映画製作に参加し、『生の輝き』『深山の乙女』(帰山教正監督)に出演。近藤伊与吉の回想によると『生の輝き』のシナリオを読んだ際、村田が帰山に「脚本の作法と言うものは吾々には解らないが、そのままではその脚本は新派ですよ」と発言し、帰山・近藤と三晩徹夜してシナリオを直したという[7]。これにより新劇から映画に情熱的にうちこむようになった。後に帰山は映画芸術協会を名乗って映画製作を行い、村田も彼の作品に出演するが、1919年(大正8年)の『さらば青春』(近藤伊与吉監督)で演出意見の衝突により脱退[2]。同年には『東京日日新聞』主催の乙種活動写真(全年齢対象)向けの脚本募集に二位入選している(一位は後の東宝専務の森岩雄、三位は後の松竹蒲田の脚本家北村小松[8]
松竹キネマ時代

1920年(大正9年)、松竹キネマ俳優学校校長の小山内薫の門下となり、蒲田撮影所で『奉仕の薔薇』[注釈 1]『光に立つ女(女優伝)』の脚本・監督を務める。やがて社内の商業主義監督たちとの対立により、小山内が松竹キネマ研究所を設立すると行動をともにし、その最初の作品『路上の霊魂』の監督・出演をこなす。しかし完成直後に村田が大病に罹り、牛原虚彦(脚本・出演)の母、水谷文次郎(撮影)と島津保次郎(光線)の父が急逝する事態になったが[9]、当時の反響は大きく[注釈 2]、今日まで残る日本の芸術映画黎明期を伝える資料となっている。
浪人・日活向島撮影所時代

1921年(大正10年)8月に松竹キネマ研究所は解散し、村田は製作費に糸目をつけず松竹の経済を圧迫した責任で辞任。


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