村田兆治
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村田 兆治引退試合での村田兆治(川崎球場
基本情報
国籍 日本
出身地広島県豊田郡本郷町(現:三原市
生年月日 (1949-11-27) 1949年11月27日
没年月日 (2022-11-11) 2022年11月11日(72歳没)
身長
体重181 cm
78 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1967年 ドラフト1位
初出場1968年10月8日
最終出場1990年10月13日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


福山電波工業高等学校

東京オリオンズ
ロッテオリオンズ
(1968 - 1990)

コーチ歴


ロッテオリオンズ (1990)

福岡ダイエーホークス (1995 - 1997)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2005年
選出方法競技者表彰
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村田 兆治(むらた ちょうじ、1949年11月27日 - 2022年11月11日)は、日本プロ野球選手投手)・コーチ解説者評論家広島県豊田郡本郷町(現:三原市)出身。

現役時代は東京オリオンズ→ロッテオリオンズで活躍した。そのダイナミックな投球フォームは、「マサカリ投法」と呼ばれていた。通算暴投の日本記録保持者(148回[1])。
経歴
プロ入り前

村田がプロ野球選手を志したのは小学5年のとき、父に連れられて広島市民球場ナイターを観戦しに行ったことがきっかけだった。初めて生で見るプロの試合に鳥肌が立つほど興奮し、それ以来、プロ野球選手以外の将来は考えられなくなったという。

速くて球質が重い、剛速球は天賦の才と言ってよく、進学した福山電波工業高校(現:近畿大学附属広島高等学校福山校)時代から、スピードガンがあればその球速は既に152、153 km/hをマークしていただろうと言われ[2]、県内でも屈指のピッチャーとして有名だった。1年上には浅野啓司がおり、2年生の秋からエースとなる。当時の広島県には、山本和行を擁する広島商大田垣耕造のいた尾道商1967年夏の甲子園準優勝を果たした広陵高など強豪がひしめいており、厳しい競争が続いた。

1966年秋季中国大会県予選で準々決勝に進出するものの広陵高に惜敗。翌年夏の県予選でも3回戦で呉港高に敗れ、甲子園出場の悲願は叶わなかった[3]。しかし、広島カープ木庭教スカウトから間接的に「ドラフト1位で指名する」と伝えられていたため、村田は「カープに入れる」と喜んでいた[3][4]東京オリオンズは1位指名を誰にするか決めかねていたが、濃人渉監督が、植村義信投手コーチを呼び「お前が決めろ」と一任し[5]、植村が映像を観て、肩の強さや体の柔らかさをスカウトから聞いた上で村田の指名を進言する[5]この年第3回ドラフトは、予備抽選で指名順位を決め、1番くじを引いた球団から順に1人ずつ指名していく方式で[3]、広島は12番目[3]。その前の6番くじを引いた東京オリオンズが1位指名した[3]
現役時代

1967年のドラフト1位で東京オリオンズに入団。背番号はエースナンバーの「18」を希望するも、叶わず「29」となった。この「29」番が後に村田の代名詞となっていく。

1年目の1968年は振るわなかった。当時はドラフト1位の契約金を持て余し、パチンコ麻雀など遊びに明け暮れていた。そのようなある日、徹夜の麻雀を終えて独身寮に朝帰りして来た時、日課のロードワークに出発しようとしていた小山正明と鉢合わせになる。その時既にベテランだった小山が、若手の自分よりも遥かに厳しい練習を自分に課していることに衝撃を受け、そのまま逃げるように自分の部屋に帰ってしまった。その後、練習中に小山に謝りに行ったところ、「お前ほどの才能がありながら、それを無駄にするのはさびしくないか」と諭された。球界を代表する大投手からの叱咤激励に感激した村田は、以降別人のように練習に打ち込むようになったという。村田の若手時代のロッテには小山以外にも成田文男木樽正明坂井勝二金田留広と名投手がおり、村田は彼らから投球術を学んでいった。また、73年から監督に就任した金田正一からコンディショニング方法を学んだ。打撃の練習に対して非常に厳しい姿勢を見せていた榎本喜八にも、プロ野球選手として影響を受けた。

球団名がロッテとなった2年目の1969年に頭角を現し、5月中旬には先発の一角に抜擢される。同年は6勝(そのうち5勝は完封)8敗を記録し、初めて規定投球回(20位、防御率3.58)にも達した。1970年にはリーグ優勝を経験、1971年、後に監督となる金田正一のアドバイスを元に、近藤貞雄投手コーチによる投球フォームを大幅に改造し、後に村田の代名詞となる「マサカリ投法」の原型を編み出した。同年は12勝8敗、防御率3.34(リーグ10位)の好成績を残す。

1974年のロッテのリーグ優勝の際にも大車輪の活躍を見せた。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは4試合に登板。第1戦(中日球場)では9回裏に抑えとして登板するが、高木守道に逆転サヨナラ二塁打を喫する[6]。第2戦(中日球場)、第4戦(後楽園球場)は抑えとして勝利に貢献し、第4戦(後楽園球場)では前日の鈴木孝政(中日)に続いて「ロッテ・オリオンズ」の選手としてシリーズ初セーブを記録した[7]。最終第6戦(中日球場)では先発登板し、松本幸行星野仙一との投手戦を制し延長10回まで投げて、完投勝利[8]し、最優秀投手賞に選出された[9]

1976年にはフォークボールを習得する。人並み外れた長い指が生み出す切れ味鋭い変化は、ことごとく打者のバットに空を切らせた。9月10日の対日本ハムファイターズ戦(後楽園球場)では5度の完封勝利[注 1]を含む初のシーズン20勝目を挙げ[15]、同年シーズンは257回を投げて21勝を挙げると同時に、防御率1.82で最優秀防御率のタイトルを獲得[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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