村橋久成
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 凡例村橋 久成

時代江戸幕府幕末) - 明治時代初期
生誕天保13年(1842年[1]10月
死没明治25年(1892年)9月28日
改名幼名:昇介→直衛、久成
墓所青山霊園
薩摩藩
氏族島津氏(加治木島津家)
父母父:村橋久柄
子村橋圭二
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村橋 久成(むらはし ひさなり)は、幕末薩摩藩士、開拓使官吏。英国留学時の変名は橋直輔。

加治木島津家の分家に生まれ、薩摩藩第一次英国留学生の一人としてロンドンに留学、戊辰戦争では砲兵隊を率いて東北戦争箱館戦争に従軍する。維新後は開拓使に勤め、日本初の低温発酵ビールを製造した「開拓使麦酒醸造所(サッポロビールの前身)」の設立に携わるが、突如退官した後、家族を捨て一人放浪し、最後は神戸で行旅死亡人として死去した。
系譜

天保13年(1842年)10月、薩摩藩御一門である加治木島津家の分家・村橋久柄(ひさえ)の嫡男として生まれる。村橋家は、加治木島津家第三代・島津久季の三男・久昌が村橋姓を名乗ったのにはじまる家[2]で、藩内での家格は「寄合並」[3]嘉永元年(1848年)、父・久柄が琉球に赴任する途中で難破、行方不明となったため、6歳で村橋家の家督を継ぐ[4]
英国への留学若き薩摩の群像

御小姓組番頭であった元治2年(1865年)1月、藩命により薩摩藩第一次英国留学生の一人に加えられる。村橋は以前から留学を夢見ていたわけでなく、十分な心の準備もなかった[5]が、当初命じられた同僚の島津織之助、高橋要が固辞したため補充として選ばれた[6]。その際の変名は「橋直輔」。命じられた翌日に鹿児島を出発し串木野郷(現・いちき串木野市)羽島浦に滞留、3月、グラバー商会所有の「オースタライエン号」に乗船し密出国する。香港シンガポールスエズを経て、5月にロンドンに到着。最初は海軍学、後に陸軍学を専門とする。8月にはロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの法文学部に入学する[4]

しかし西洋文明に対するカルチャーショックからノイローゼ[7]となり、慶応2年(1866年)5月、わずか1年で、外交使節として留学生とともにロンドンへ行った松木弘安とともに帰国した。なお、帰途、上海から海援隊・陸奥陽之助と同船する[8]

時期不明だが、弟・宗之丞に家督を譲る[9](宗之丞は戊辰戦争で戦死)。
戊辰戦争従軍

慶応4年(1868年)7月、加治木大砲隊長として250名の兵を率いて鹿児島を出発する。8月下旬に越後松崎浜(現・新潟市東区松崎)に上陸した後、新発田米沢上山山形を転戦。東北戦争終結後、東京へ移動する[4]
箱館戦争

明治2年3月、黒田清隆らとともに軍艦春日に乗り東京を出発、青森に向かう。途中、宮古湾海戦で旧幕府軍の攻撃を受ける。青森到着後、旧幕軍征討青森口鎮撫総督府軍監となる[4]

4月16日、征討軍の第三陣として江差に上陸。二股口に向かい、土方歳三率いる旧幕府軍と戦う(二股口の戦い[4]。新政府軍が5月11日に箱館を制圧した後、5月12日、参謀・黒田清隆の命を受け、会津遊撃隊長・諏訪常吉の見舞と称して部下の池田次郎兵衛とともに箱館病院を訪ねる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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