村松友視
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松村友視」とは別人です。
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村松 友視[注 1](むらまつ ともみ、1940年昭和15年〉4月10日 - )は、日本作家、元編集者エッセイスト
来歴

東京市渋谷区千駄ヶ谷で生まれ、4歳から静岡県富士宮市周智郡森町で、終戦後は清水市(現・静岡市清水区)で育つ[1]。祖父は作家の村松梢風[2]。父・村松友吾は中央公論社の編集者。母も中央公論社に勤務。父方のおじに脚本家の村松道平、教育評論家の村松喬、中国文学者の村松暎慶應義塾大学文学部教授)がいる。

父・友吾は中央公論社を退社した後、妻とともに上海に移住し「上海毎日新聞」の記者となっていたが、友視の生まれる前に腸チフスで他界。祖父梢風は若い未亡人の将来を案じて再婚を薦め、生まれた友視を梢風自身の五男として入籍する[注 2][注 3]。だが梢風は戦後疎開先から戻ると鎌倉で愛人と暮らし、友視は清水で祖母(梢風の妻)一人に育てられる[4]。少年時代から熱狂的なプロレスファンとして育つ。静岡県立静岡高等学校を経て、1963年慶應義塾大学文学部哲学科を卒業[5]

大学時代はテレビ局でアルバイトをしていたため、そのままテレビ局に入社するつもりでいたが、入社試験に失敗。その後、何社ものマスコミを受験するが合格せず、祖父、父の縁がある中央公論社の社長嶋中鵬二に依頼して、既に締め切っていた中央公論社の試験を受けて入社。入社後は『小説中央公論』『婦人公論』の編集者として働く。『婦人公論』時代にはベトナム戦争下のサイゴンを取材した他、編集者として伊丹十三のサロンに出入りしていた。また叔父村松暎の教え子で『婦人公論』編集者時代に伊丹の担当者だった草森紳一と知り合い、彼の薦めで雑誌「デザイン」等にコラムを執筆した。しかし同人雑誌や文芸クラブなどに所属したことも一切なかったので、作家になろうとはまだ思っておらず、仕事を通じてかろうじて文学と縁をもったという印象だったという[6]

1969年に文芸誌『』創刊準備のため、新雑誌研究部というセクションに異動。創刊後はそのまま編集部員となった。途中入社して『海』に参加した安原顯と同僚として交際した。『海』時代は「既成の作家の中にもすごい人はいるけれど、文壇外の作家を探し出すのが僕の本当の役目だという強い意識」があったという村松は、海外文学は安原にまかせ、当時クローズアップされていた「状況劇場」の主宰者唐十郎の戯曲を編集長の反対を押し切って掲載[7][8]するなど日本の「既成文壇外」の作家を発掘し、江藤淳らに高く評価されるなど名編集者ぶりを発揮した[9]武田泰淳『富士』、後藤明生『夢かたり』、田中小実昌『ポロポロ』、色川武大『生家へ』、武田百合子『富士日記』[注 4]などを担当している。また野坂昭如吉行淳之介の担当編集者でもあった。

編集者として働く一方で、自分の祖父が作家だったという自負から次第に作家への志を持つようになり、文芸雑誌の新人賞に何度も応募するが落選を繰り返す。だが後藤明生に才能を認められ、「吉野英生」[注 5]名義で、後藤が責任編集の一人である雑誌『文体』(平凡社)に「変装のあと」[注 6]を発表。この作品が福武書店の編集者の寺田博の目にとまり、雑誌『作品』に「オペラグラス」「悲劇のように」を発表。

しかし文壇への本格的なデビューは思わぬことから果たされる。1980年情報センター出版局の編集者が、糸井重里にプロレスのエッセー執筆を依頼。しかし糸井は自分の知っているプロレスフリークの編集者の方が面白い、と村松を紹介した。編集者から話を聞いた村松は気楽な気持ちで執筆、更に会社の人間は読まないだろうと先述のペンネームを使わず本名で『私、プロレスの味方です』を出版。本人の予想外のベストセラーとなり、続編『当然プロレスの味方です』も執筆することになった[10][11]。続けて『野性時代』の編集者見城徹の勧めでに発表した「セミ・ファイナル」と「泪橋」が、相次いで直木賞候補となる。1981年、専業作家への転向を決意して退職[5]。直後の1982年に『時代屋の女房』で第87回直木賞を受賞[5]。この作品は映画化もされて話題となった。

以降は風俗小説や、時代小説などを多数発表。自身とかかわりのあった人物についての評伝的作品も多い。また『夢の始末書』や『鎌倉のおばさん』(泉鏡花文学賞受賞)、『上海ララバイ』のような自伝的な作品もある。


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