村松剛
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婦人生活』1965年1月号より

村松 剛(むらまつ たけし、1929年3月23日 - 1994年5月17日)は、日本の評論家フランス文学者筑波大学名誉教授立教大学京都産業大学、筑波大学、杏林大学の各教授を歴任。
経歴

東京市小石川区目白台で、江戸時代から続く医家に生まれる。

父は精神医学者の村松常雄。母方の祖父は田部隆次。妹の村松英子と、姪の村松えり女優

東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)から第一高等学校理科を経て、1954年に東京大学文学部仏文学科を経て、同大学院に進み、ヴァレリーを研究する傍ら、「世代」「現代評論」同人として活躍。1955年、服部達遠藤周作と共にメタフィジック批評を提唱。1958年、佐伯彰一たちと共に「批評」を創刊し、ヴァレリー論を連載。1961年には尾崎秀樹武蔵野次郎が創立した「大衆文学研究会」に編集委員として参加[1]

1961年、イスラエルアイヒマン裁判を傍聴。1962年アルジェリア独立戦争に従軍。1969年、立教大学に勤務していたが、学園紛争に対する大学当局の対応を巡り争いとなり、同大学を懲戒免職になる(下記注参照)。

1970年11月25日、親の代から家族ぐるみで親交があった三島由紀夫の自決(三島事件)に遭う。1971年、京都産業大学外国語学部教授、1975年、筑波大学教授となる。

1975年、「死の日本文學史」で第4回平林たい子賞を受賞。

1981年10月27日、「元号法制化実現国民会議」を改組する形で、「日本を守る国民会議」の結成式が行われた。村松は井深大宇野精一らとともに結成式の呼びかけ人に名を連ねた[2]

1982年、フランス政府より教育功労章オフィシェを受章。木戸孝允の大作評伝「醒めた炎」(1979年から1987年にかけ日本経済新聞「日曜版」に長期連載)で第35回菊池寛賞を受賞。

1990年10月27日、平成の天皇即位礼を控え、保守言論人として天皇制支持[3]者の言論人として、革労協により自宅(筑波大学教員として入居していた官舎)が爆破炎上される事件を起こされている。戸塚ヨットスクールへの支持者としても知られる。

喉頭癌と長年闘病しつつ執筆活動をしたが、1994年5月17日に死去。65歳没。叙従四位勲三等瑞宝章追贈。
立教大学解雇のいきさつ

村松は1967年に立教大学文学部助教授、1969年4月に同教授となったが、この頃一般教育部の2教員の文学部仏文科移籍人事をきっかけとして学内紛争が起こった。1969年5月15日の文学部集会で教授会側が文学部の全共闘系学生の要求を容れて、仏文科問題に関する限り「大衆団交」の席で教授会と学生が合意した事項を学部の正式決定事項とするとの確認書が交わされた。これに反発した村松は5月18日に退職願を学部長に提出したが保留扱いとなり、その後4回開かれた団交に村松が出席せず、報道機関を通して立教大学の紛争を批判する意見を発表したことから、6月2日から6月3日にかけての団交の席上、教授会と学生の合意の形で村松の懲戒免職が決定された。


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