むらかわ とおる
村川 透
本名高橋 透
生年月日 (1937-03-22) 1937年3月22日(87歳)
出生地 日本 山形県村山市
職業映画監督
ジャンル映画、オリジナルビデオ、テレビドラマ
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村川 透(むらかわ とおる、本名:高橋 透(たかはし とおる)、旧姓:村川、1937年3月22日 - )は、日本の映画監督・音楽家。別名:山形 透。山形県村山市出身。山形県立山形南高等学校、福島大学経済学部卒業。兄は指揮者の村川千秋。
来歴・人物の子孫にあたる。福島大学卒業後の1959年、日活に入社し営業部に所属するも、方向性の不一致から同年に退社し、翌年に演出部へ復職。社内では舛田利雄、中平康、西河克己、森永健次郎、社外では貞永方久、森谷司郎らの助監督を務め、『伊豆の踊子』『あゝひめゆりの塔』『嵐の勇者たち』など多数の作品に参加。特に日米合同スタッフによる戦争大作『トラ・トラ・トラ!』では、日本側演出部総チーフ(ノンクレジット)として現場を取り仕切った。この間に結婚し、鋳物職人高橋敬典(後の人間国宝)の婿養子となる。
1972年、監督デビュー作である日活ロマンポルノ映画『白い指の戯れ』(脚本:神代辰巳)が成人映画としては初めてキネマ旬報ベストテンにランクインする高評価を受けるが、ほどなくして日活を退社。郷里の山形に戻り、義父・敬典の下で修行生活を送る傍ら、兄・千秋による山形交響楽団設立に携わった[1]。1976年に恩師の舛田と日本テレビプロデューサー・山口剛らの計らいにより、テレビドラマ『大都会 闘いの日々』で監督復帰。この時に松田優作と出会い、1978年には松田を主演に迎えた『最も危険な遊戯』で映画監督としても本格復帰した。さらに翌1979年以降は当時若手プロデューサーだった角川春樹や奥山和由の下で『白昼の死角』『蘇える金狼』『凶弾』などのメジャー配給作品にも進出する。
松田とはその後も『野獣死すべし』やテレビドラマ『探偵物語』などでコンビを組み、また『西部警察』『あぶない刑事』『はみだし刑事情熱系』などの人気シリーズを手掛けた。
松田優作没後も多くの作品を発表し続け、出身地の山形県村山市では「村川透映画祭」が開催されている。また、舞台を中心に活動していた柴田恭兵を『大都会 PARTII』のゲスト出演に推薦、その後『大追跡』のレギュラーに起用され、その人気を全国区へ広げたことでも知られている。
クラシック、ジャズ、ポップス問わず音楽方面への造詣が深いことでもよく知られ、自らもアマチュアサクソフォニストとして活動。日活時代には演奏者として劇伴のレコーディングに参加することもあった。後に『遊戯』シリーズなどで組む作曲家・キーボーディストの大野雄二とは当時からの旧知であったという。
また、目撃者役、人質役、タクシー運転手役など自作へのカメオ出演が多いことでも有名である。山形透の芸名を用い、出演者として直接クレジットされることも多い。
2014年6月、東日本大震災で損壊した生家を解体し、跡地に60人収容の私設多目的ホール「アクトザールM.」を開設した。
主な監督作品
劇場映画
白い指の戯れ(1972年6月7日 / 日活) 兼 脚本
官能地帯 哀しみの女街(1972年9月16日 / 日活)
哀愁のサーキット(1972年12月27日 / 日活) 兼 脚本
最も危険な遊戯(1978年4月8日 / 東映セントラルフィルム、東映芸能ビデオ)
殺人遊戯(1978年12月2日 / 東映セントラルフィルム)
白昼の死角(1979年4月17日 / 東映)
蘇える金狼(1979年8月4日 / 角川春樹事務所、東映)
処刑遊戯(1979年11月17日 / 東映セントラルフィルム)
薔薇の標的(1980年4月26日 / 東映)
野獣死すべし(1980年10月4日 / 角川春樹事務所、東映)
獣たちの熱い眠り(1981年9月12日 / 東映、徳間書店)
凶弾(1982年9月15日 / 松竹映像、富士映画)
シングル・ガール