村岡花子
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村岡花子
読売新聞社『家庭よみうり』334号(1953年)より
誕生安中はな
1893年6月21日
山梨県甲府市
死没 (1968-10-25) 1968年10月25日(75歳没)
東京都大田区
職業児童文学者翻訳家
国籍 日本
最終学歴東洋英和女学校
代表作『赤毛のアン』翻訳
主な受賞歴藍綬褒章(児童文学への貢献)
配偶者村岡?三
子供道雄(長男・早世)、村岡みどり(養女:姪、妹・梅子の長女)
親族村岡美枝村岡恵理(大姪、義理の孫)
公式サイト ⇒赤毛のアン記念館・村岡花子文庫
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村岡 花子(むらおか はなこ、1893年明治26年〉6月21日 - 1968年昭和43年〉10月25日)は、日本翻訳家児童文学者

児童文学の翻訳で知られ、モンゴメリの著作の多くと、エレナ・ポーターオルコットなどの翻訳を手がけた。基督教文筆家協会(現・日本クリスチャン・ペンクラブ)初代会長(在任、1952年〈昭和27年〉6月 - 1958年〈昭和33年〉10月)。
経歴
生い立ち甲府教会初代教会堂。
1892年(明治25年)頃の撮影。当時の所在地は甲府市桜町(現:中央2丁目)。

山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として生まれる。本名:村岡 はな(むらおか はな)、旧姓:安中(あんなか[1][2])。

クリスチャンである父の希望により、2歳でカナダ・メソジスト派の甲府教会において小林光泰牧師より幼児洗礼を受ける。父の逸平は駿府(現静岡市)の小さな茶商の家に生まれ、茶の行商中にカナダ・メソジスト派教会に出入りするようになり、熱心なクリスチャンとなる。布教の流れで甲府に移り住み、そこで出会ったてつと結婚してその実家に住むようになる。教会での交流で新しい文化の影響を受けた逸平は、利発な長女のはなに過剰なほどの期待をかけた。

常識にとらわれず商売そっちのけで理想を追い求める逸平は、妻の実家や親戚と揉め事が絶えず、はなが5歳の時にしがらみを断って一家で上京し、南品川で葉茶屋を営むようになる。城南尋常小学校に通うはなは、心象風景を短歌で表現し句作をして詠んでは楽しむ幼少期を過ごした。その頃、社会主義活動に加わった逸平は特に教育の機会均等を訴え、娘の才能を伸ばすべく奔走し、1903年(明治36年)、学校創設者との信仰上の繋がりから、10歳のはなを東洋英和女学校に給費生としての編入学を実現させる。一方、家族の生活は困窮しており、8人兄弟のうち高い教育を受けたのは長女のはなのみで、他の弟妹は次女と三女を残して皆養子や奉公などで家を出されている。はなの入学は、弟妹たちの犠牲の上に成されたものであった。
女学校入学

東洋英和女学校でカナダ人のI・S・ブラックモーア宣教師から英語を学び、寄宿舎監の加茂令子から薫陶を受ける傍ら、大正三美人の1人で後に白蓮事件を起した同級生柳原Y子[3]の紹介で佐佐木信綱の「竹柏会」に入り、万葉集など日本の古典文学を学ぶ[4]。この頃からペンネームとして安中 花子を名乗るようになる。同校高等科在学中からアイルランド文学の翻訳家松村みね子(歌人としての筆名に片山廣子芥川龍之介の晩年の恋人)の勧めで童話を執筆。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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