村山貯水池
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この項目では、通称で多摩湖と呼ばれる貯水池について説明しています。東大和市町丁については「多摩湖 (東大和市)」をご覧ください。

村山上貯水池

左岸所在地東京都東大和市芋窪
位置.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度45分48秒 東経139度25分02秒 / 北緯35.76333度 東経139.41722度 / 35.76333; 139.41722
河川多摩川水系多摩川
ダム湖多摩湖【ダム湖百選
ダム諸元
ダム型式アースダム
堤高24.2 m
堤頂長318.2 m
堤体積333,000
流域面積1.3 km²
湛水面積41 ha
総貯水容量3,321,000 m³
有効貯水容量2,983,000 m³
利用目的上水道
事業主体東京都
施工業者ダム事業者直営
着手年/竣工年?/1924年
出典[1]
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村山下貯水池

左岸所在地東京都東大和市清水
位置北緯35度45分51秒 東経139度26分25.5秒 / 北緯35.76417度 東経139.440417度 / 35.76417; 139.440417
河川多摩川水系多摩川
ダム湖多摩湖【ダム湖百選】
ダム諸元
ダム型式アースダム
堤高32.6 (32.6) m
堤頂長610 (587.3) m
堤体積1,100,000 (836,000)
流域面積2 (2) km²
湛水面積111 (111) ha
総貯水容量12,148,000 (12,148,000) m³
有効貯水容量11,843,000 (11,843,000) m³
利用目的上水道
事業主体東京都
施工業者(元)ダム事業者直営(再)大成建設西松建設飛島建設
着手年/竣工年?/1927年
出典[2]
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村山貯水池(むらやまちょすいち、英称:Murayama Reservoir)は、多摩湖(たまこ、英称:Tama Lake)の通称で呼ばれる[3]東大和市狭山丘陵渓谷に造られた1927年(昭和2年)完成の東京都水道局水源管理事務所村山・山口貯水池管理事務所が管理する人造湖である。西の村山上貯水池と東の村山下貯水池に分かれている。東京都内の他県にまたがらないの中では最大である。
歴史
建設背景

明治以降、人口増加及び水道改善目的で東京市1898年(明治31年)12月1日に淀橋浄水場を竣工させ、1911年(明治44年)3月まで施設能力を増強させたが、それでも市民の増加及び一人当たりの使用量の増加に対応しきれなかった。そのため、東京市の人口増加に対応した水源確保のため[4]、貯水池を新設することとなった。新設は中島鋭治の調査にて、西多摩郡大久野村(現・日の出町)か北多摩郡の6村(清水村狭山村高木村奈良橋村蔵敷村芋窪村)(現・東大和市)にまたがる狭山丘陵の二案が検討され、内部がすり鉢の窪地のため工費が安いという理由で、狭山丘陵に建設することが決定した[5]
立ち退き

1914年(大正3年)3月頃から1919年(大正8年)12月にかけて土地買収が行われた。建設予定地には小さな部落ごとに161戸が住んでおり、買収価格は当時の村民の収入からすれば高額だったため、反対者は少なかったが、長期にわたる一部の反対者には土地収用法が適用された[6]
着工・竣工

1916年(大正5年)から1927年(昭和2年)まで10年の歳月をかけ建設された[7]。工事にあたり、資材運搬と導水管(羽村村山線)工事のために羽村-横田間(7.8 km)に軽便鉄道を1918年(大正7年)に着工し1921年(大正10年)に完成した[8]。この鉄道は完成後1924年(大正13年)に廃線となり線路撤去を行ったが、1928年(昭和3年)に山口貯水池(狭山湖)建設工事のため、羽村-横田間の線路再敷設と横田-山口貯水池堰堤間の延伸工事を行い、1929年(昭和4年)には資材運搬に利用された。廃線跡の一部は武蔵村山市は野山北公園自転車道[9]として、羽村市は神明緑地として整備された。
竣工後

1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)にかけて、太平洋戦争中に爆撃対策として羽村山口軽便鉄道を復活させ砂利を運び、貯水池の堤体(堤防)の嵩上げ工事を行い、コンクリートによる耐弾層を設け堤体を強化する。

1945年(昭和20年)- 米軍により、山口貯水池を含めて5回(4月4日、4月12日、5月25日、6月10日、6月11日)の爆撃を受ける[10]

1978年(昭和53年)- 日本初の女子フルマラソンが行われる[11]

1982年(昭和57年)- 新東京百景に選ばれる。

1985年(昭和60年)- 山口貯水池と合わせて、近代水道百選(日本水道新聞社)に選ばれる。

2003年(平成15年)から2009年(平成21年)3月にかけて、村山下貯水池の耐震補強工事が行われる。この工事により戦時中に建設された耐弾層を撤去した。工事中は堤体付近への立ち入りが出来なくなっていたが、完成に伴い一般市民へと開放された。その工事の状況などを説明している「村山下貯水池工事インフォメーションセンター」、工事の状況が見られる「見晴台」が堤体の南側に設置されていた。

2005年(平成17年)- ダム湖百選(一般財団法人水源地環境センター)に選ばれる。

2007年(平成19年)- 山口貯水池と合わせて、土木学会選奨土木遺産(公益社団法人土木学会)に選ばれる[12]

2016年(平成28年)から2023年度(令和5年度、予定)にかけて、村山上貯水池の堤体強化工事が行われる。

施設
村山上引入れ水門
羽村線出口に設置された幅4.000m、開度3.900mの水門
村山上取水塔
ダム南岸に設置された、内径7.879m高さ27.511mの取水塔で、取水口4個を有し、それぞれの取水口のゲートの名称は、最下段を一号ゲート、以降、上段に向かって二号ゲート、三号ゲート及び四号ゲートと呼称する。
村山下第一取水塔
ダム南岸に設置された、内径7.879m高さ27.061mの取水塔で、取水口7個(最下段は2個)を有し、それぞれの取水口のゲートの名称は、最下段の左を一号ゲート、右を二号ゲート、以降、上段に向かって三号ゲート、四号ゲート、五号ゲート、六号ゲート及び七号ゲートと呼称する。
村山下第二取水塔
ダム南岸に設置された、内径7.000m高さ27.400mの取水塔で、取水口7個(最下段は2個)を有し、それぞれの取水口のゲートの名称は、最下段の左を一号ゲート、右を二号ゲート、以降、上段に向かって三号ゲート、四号ゲート、五号ゲート、六号ゲート及び七号ゲートと呼称する。

完成当初は多摩川の水を羽村取水堰で取り入れ、導水管にて村山貯水池に導いて貯水し[13]、ここから境浄水場へ導水して浄水処理を行い、和田堀浄水池淀橋浄水場を経て東京市内へ給水された。


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