村山槐多
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村山 槐多
村山槐多 1918年撮影
誕生日1896年(明治29年)9月15日
出生地 日本 神奈川県橘樹郡神奈川町(現・[[神奈川県][[横浜市]
死没年1919年(大正8年)2月20日(22歳没)[1]
死没地 日本 東京府豊多摩郡代々幡町(現・東京都渋谷区代々木
国籍 日本
運動・動向油彩画水彩画、ほか
芸術分野絵画
出身校京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校
代表作『カンナと少女』『乞食と女』『湖水と女[2]尿する裸僧』ほか
活動期間1914年(大正3年)5月 - 1919年(大正8年)初頭
影響を受けた
芸術家山本鼎シャルル・ボードレールアルチュール・ランボーフォーヴィスムの画家達。
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村山 槐多(むらやま かいた、1896年明治29年〉9月15日 - 1919年大正8年〉2月20日)は、明治・大正時代の日本洋画家で、詩人作家でもある。神奈川県橘樹郡神奈川町(現在の横浜市生まれ、京都市上京区育ち。母方の従兄山本鼎(画家)と嶺田丘造官僚)、はとこ黒柳朝随筆家)がいる。

みなぎる生命力を退廃的・破滅的雰囲気を纏わせながら絵画に表した[3]。ガランス(深い茜色、やや沈んだ赤色)を好んで使ったことでも知られる[3]
生涯

槐多は、愛知県額田郡岡崎町にて小学校教諭・村山谷助とその妻・たまの長男として生まれた。岡崎町はかつての岡崎城城下町で、現在の岡崎市。従来の出生地の定説は、父親が教員を務めていたという神奈川県橘樹郡神奈川町(現在の横浜市神奈川区)であったが[2][4]岡崎市美術博物館学芸員が親族への聞き取りと岡崎市役所に残された槐多の出生届資料を確認したうえで、2011年(平成23年)12月に正しい情報を公表した[5]。岡崎町は母・たまの出身地で[6]、谷助とたまが婚姻届を出したのは槐多が生まれる2週間前であった[7]。母・たまは結婚前に森?外家で女中奉公をしており、村山家では鴎外が「槐多」の名付け親になったと言い伝えられている[8][* 1]

槐多は10代からボードレールランボーの作品を読み耽り、詩作もよくした。その早熟さ、デカダン(退廃)的な生活、貧しさや失恋による心の痛みなどにより困窮した。さらに結核肺炎を患った。また、同じ年に20代前半で夭折した点で、同じ洋画家の関根正二とよく比較されるが、2人の作風は全く異なっている。画家自身のほとばしる情念や不安を反映した槐多の人物像は、器用ではないが一度見たら忘れられない強烈な印象を残すものである。

1919年(大正8年)2月、槐多は当時猛威を振るっていたスペイン風邪に罹って寝込んでしまう。2月19日夜9時頃、槐多はみぞれ混じりの嵐の中を外に飛び出し、日の改まった20日午前2時頃、畑で倒れているのを発見された。槐多は失恋した女性の名などしきりにうわごとを言っていたが、午前2時30分に息を引き取った。まだ22歳の若さであった。

高村光太郎は、1935年昭和10年)になって「強くて悲しい火だるま槐多」などと詩に詠んで生き急いだ若者を哀悼している[9][3]。日本美術院の研究生時代から槐多青年は高村の工房に出入りしていた。以下に原文を記載する。.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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