村山富市
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日本政治家村山 富市むらやま とみいち
内閣広報室より公表された肖像
生年月日 (1924-03-03) 1924年3月3日(100歳)
出生地 日本 大分県大分市
出身校明治大学専門部政治経済科卒業
前職大分県漁村青年同盟書記長
現職明治大学顧問
所属政党(日本社会党→)
社会党左派→)
(日本社会党→)
社会民主党
称号陸軍軍曹
桐花大綬章
名誉博士(明治大学、崇実大学
配偶者村山ヨシヱ1953年?)
サイン
第81代 内閣総理大臣
内閣村山内閣
村山改造内閣
在任期間1994年6月30日 - 1996年1月11日
天皇上皇(明仁)
衆議院議員
選挙区(旧大分1区→)
大分1区
当選回数8回
在任期間1972年12月10日 - 1980年5月19日
1983年12月18日 - 2000年6月2日
大分県議会議員
選挙区大分市選挙区
当選回数3回
在任期間1963年 - 1972年
大分市議会議員
当選回数2回
在任期間1955年 - 1963年
その他の職歴
初代 社会民主党党首
1996年1月19日 - 1996年9月28日
第13代 日本社会党委員長
1993年9月25日 - 1996年1月19日
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村山 富市(むらやま とみいち、1924年大正13年〉3月3日 - )は、日本政治家労働組合指導者。第81代内閣総理大臣勲等桐花大綬章

労働組合運動から日本社会党に所属し政治家となり、大分県大分市議会議員(2期)、大分県議会議員(3期)、衆議院議員(8期)、日本社会党委員長(第13代)、内閣総理大臣(第81代)、社会民主党党首(初代)、名誉党首を歴任した。

2019年11月29日中曽根康弘が死去したことに伴い、存命する内閣総理大臣経験者としては最高齢、かつ唯一の大正生まれの人物となった。2024年5月時点において、歴代の内閣総理大臣では東久邇宮稔彦王、中曽根に次いで三番目の長寿記録保持者であり、百寿(満100歳)を迎えている[1]
概説

大分市議会議員、大分県議会議員を経て、衆議院議員として国政に参画した。社会党が左右分裂していた時代には左派社会党に所属。衆議院議員に当選後、日本社会党の党内では政権構想研究会水曜会に所属するなど、一貫して社会党右派として活動した。衆議院では社会労働委員会や予算委員会の理事を務め、物価問題等に関する特別委員会では委員長に就任した。日本社会党国会対策委員会委員長などを務めたのち、山花貞夫の辞任にともなう日本社会党委員長選挙に立候補し当選した。

非自民・非共産連立政権では与党第一党の党首として、非自民政権であった細川内閣羽田内閣を支えたが、改新結成騒動などを巡り対立が激化し、連立政権から離脱した。55年体制で社会党と対立してきた自由民主党との連立を決断して自社さ連立政権を樹立して第81代内閣総理大臣に就任し、1994年6月30日から1996年1月11日まで在任した。その後、日本社会党を解党させるとともに、新たに社会民主党を結成し、同党の党首や特別代表を務めた。現在は学校法人明治大学の顧問や大分県職員連合労働組合の特別顧問を務めるとともに、明治大学校友会の名誉会長などの名誉職を務める。また、明治大学より名誉博士の名誉学位を授与されている。
来歴・人物
政界入り築地の印刷会社で働いていたころの村山

1924年、大分県大分市漁師の家に11人兄弟の6男として生まれた。村山家は網元であったが、村山が14歳のときに父が他界している。そのため新聞配達などをしながら苦学を続けた[2]。1936年、大分市立中島尋常小学校卒業、1938年、大分市立大分高等小学校卒業後、東京に出て、昼間は機械工場や印刷工場などで働きながら、夜間は東京市立商業学校に学んだ。

1943年、旧制明治大学専門部政治経済科に入学。哲学研究部に属す。このころ、同じく明治大学に通っていた丸谷金保に誘われ、穂積五一が運営する学生寮「至軒寮」に入った[3]。1944年、学徒動員石川島造船所に配属された。同年、成人し徴兵検査を受け、学徒出陣で宮崎県都城市の日本陸軍歩兵第23連隊二等兵として入隊。1945年8月15日、幹部候補生として陸軍軍曹の階級で終戦を迎えた。

1946年、旧制明治大学専門部政治経済科を卒業した。1948年、大分県漁村青年同盟の書記長に就任した。漁業協同組合設立等の成果を収め漁村青年同盟が解散すると、その後は大分県職員労働組合の書記として活動した[4]

1951年、大分市議会議員選挙に立候補したが、次点で落選。1953年、ヨシヱ夫人と結婚。再起を期した1955年、大分市議会議員選挙に日本社会党から立候補し、当選(以後当選2回)。1963年、大分県議会議員選挙に支持者の後援で立候補し、当選(以後連続3回当選)。1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に立候補し、トップで初当選(同じ自治体議員経験者たる社会党新人代議士に竹村幸雄)。以降、落選1回を挟み、通算当選8回。1973年には横路孝弘田英夫らと「新しい流れの会」に参画。
国会対策委員長から社会党委員長へ

1991年7月、土井たか子に代わり田邊誠が社会党委員長に就任すると、村山は国会対策委員長に就任した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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