村井秀夫
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オウム真理教徒村井 秀夫
誕生 (1958-12-05)
1958年12月5日
日本大阪府吹田市
死没 (1995-04-24) 1995年4月24日(36歳没)
日本東京都渋谷区恵比寿
出身校大阪大学大学院理学研究科
ホーリーネームマンジュシュリー・ミトラ
配偶者M1985年?-1990年
ステージ正大師
教団での役職科学技術省大臣
入信1987年4月
関係した事件坂本弁護士一家殺害事件
松本サリン事件
地下鉄サリン事件
判決裁判なし(立件前に死亡)
現在の活動死亡(他殺)
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村井 秀夫(むらい ひでお、1958年昭和33年〉12月5日 - 1995年平成7年〉4月24日[注 1])は、オウム真理教幹部。大阪府吹田市出身。ホーリーネームマンジュシュリー・ミトラ、ステージは正大師。省庁制が採用された後は科学技術省大臣だった。教団では麻原に次ぐナンバー2、科学技術部門最高幹部と見られていた。
人物
青年時代

子供の頃は内向的でSF少年であり、動物望遠鏡を観察したり、グッピーミジンコを養殖するのが趣味、勉強は得意で体は丈夫だった[1]城みちるに似ていたため、ついたあだ名は「ジョー君」[2]

テレビの影響で超能力や精神世界、仙道ヨガなどに興味があり超人願望があったという[3]。また、1972年に友人の兄がトラックへ飛び込み自殺する光景を目撃している[4]

大阪府立千里高等学校ではただ1人無遅刻無欠席を成し遂げ表彰された[1]。その後、「歩いて通えるから」という理由で大阪大学理学部物理学科に首席合格しX線天文学を専攻[2]。大阪大学大学院理学研究科修士課程修了、理学修士となる。
オウムとの出会い

大学院修了後は神戸製鋼所に入社。超塑性鍛造などの金属加工の研究に携わるが、会社にも家庭にも生きがいを感じなかった。その頃、麻原彰晃の著書『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などを読み、1987年4月、早速オウム大阪支部を訪れる。感銘を受けた村井は翌日に会社に辞表を提出し、オウム神仙の会に入信[5]、「もう迷うことはない。わたしは今、水を得た魚となったのだ。さあ、真理の大海、自由の大海、歓喜の大海へ泳ぎ出よう。」と決意した[6]
出家

1985年4月に職場結婚した妻と1987年6月23日夫婦で出家する(1990年ステージの違いを理由に協議離婚)。出家番号は24。彼が出家者になるのを両親が思いとどまらせようとしたとき、彼は、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』の日本語訳を手渡して、「この本を読んでください。僕の気持ちはこの本の中にあるから」と述べた。この経緯から、のちに母親は「この本、嫌いです」と語った[7]

出家後はオウムの科学者の代表格として真理科学研究所(CSI、後の広報技術部→科学技術省)を任され、占星術のプログラム[8]アストラル・テレポーター、ビラ配りロボット、多足歩行ロボット、ホバークラフト[9] などを企画・開発した。また、教団には医者が多くいたにも関わらず、何故か獣医遠藤誠一と、まったく医療資格を持たない村井が麻原の主治医を務めていた[10]

教団の中では、上祐史浩青山吉伸のような権力欲は持たず、突き抜けて楽しそうにしていた。田原総一朗は、麻原の3女松本麗華に対し麻原は村井を信じていたのではないかと問うたところ、麻原は「“村井を信じる奴はバカだ”」と言っていたこともあったと証言した[11]。松本麗華の良き遊び相手でもあり麗華からは「まんじゅう」と呼ばれていた[12]
事件との関わり

1988年11月、大師に昇格。1989年2月10日、麻原の指示により、岡崎一明早川紀代秀新実智光らと共に教団を脱退したがっていた信者の殺害に関わる(男性信者殺害事件)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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