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をお願いします。(2020年5月) 日本の政治家村井倉松むらい くらまつ
生年月日1888年1月10日
出生地 日本 青森県上北郡百石村
(後の百石町、現在のおいらせ町)
没年月日 (1953-10-23) 1953年10月23日(65歳没)
出身校東京高等商業学校
(現在の一橋大学)
前職在シャム特命全権公使
第8代八戸市長
当選回数1回
在任期間1951年4月25日 - 1953年10月23日
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村井 倉松(むらい くらまつ、1888年〈明治21年〉1月10日[1] - 1953年〈昭和28年〉10月23日[1])は、日本の政治家。青森県八戸市の8代目市長。 青森県上北郡百石村(百石町→おいらせ町の前身)に生まれる。1911年(明治44年)に東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業。1914年(大正3年)高等文官試験外交科(外交官及領事館試験)に合格し、長春領事官補となる。 東亜同文書院商業学教師、外務省通商局第1課長、同第2課長、上海総領事、シドニー総領事などを務め、上海総領事時代には、第一次上海事変に対応し呉鉄城上海市長と協議を行った[2]。上海天長節爆弾事件で、重傷を負う。シドニー総領事時代には、日豪通商航海条約締結に向けた交渉にあたった。1937年(昭和12年)からシャム公使(駐タイ公使)を務め、友好通商航海条約に調印。退官後、1951年(昭和26年)に八戸市長に就任したが、任期途中で死去した。 病気のため市長在職はわずか2年であった。総合対策審議会を設置し、戦後間もない八戸市の本格的な長期ビジョン、グランドデザインに着手しその理念が後世に生かされたと評価されている。 また、八戸港の重要港湾指定、小中野漁港の着工に取り組んだ。 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2017年6月)
来歴・人物
政策
栄典
1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[3]
脚注^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、23頁。
^ 上海事変 世界大百科事典
^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
『八戸市議会史 記述編 下』(八戸市、1979年)
『青森県人名事典』(東奥日報社、2002年)
表
話
編
歴
八戸市長
官選
近藤喜衛1929.9.22-1930.5.19
神田重雄1930.8.18-1942.8.17
山内亮1942.10.1-1946.5.17
公選
夏堀悌二郎1946.7.20-1951.4.4
村井倉松1951.4.25-1953.10.23
岩岡徳兵衛1953.12.8-1965.11.16
中村拓道1965.11.17-1969.11.16
秋山皐二郎1969.11.16-1989.11.16
中里信男1989.11.17-2001.11.16
中村寿文2001.11.17-2005.11.16
小林眞2005.11.17-2021.11.16
熊谷雄一2021.11.17-現職
カテゴリ
表
話
編
歴
在シャム/タイ日本公使 (1937年-1941年)
弁理公使
公使館開設
稲垣満次郎1897-1907
館長の階級が昇格
特命全権公使
松方正作1907-1908
吉田作弥1908-1914
西源四郎1914-1920
政尾藤吉1920-1921
矢田長之助1921-1926
林久治郎1926-1928
矢田部保吉1928-1936
石射猪太郎1936-1937
村井倉松1937-1941
二見甚郷1941-1942
大使館に昇格
特命全権大使
坪上貞二1942-1944
山本熊一1944-1946
大使館閉鎖
在外事務所長
在外事務所開設
鈴木耕一1951-1952
在外事務所廃止
特命全権大使
大使館再開
太田一郎1952-1956
渋沢信一1956-1959
大江晃1959-1963
島津久大1963-1964
粕谷孝夫1964-1967
関守三郎1967-1968
後宮虎郎1968-1972
藤崎萬里1972-1976