村上龍
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村上 龍
(むらかみ りゅう)
村上龍(2005年6月3日)
誕生村上 龍之助
(1952-02-19) 1952年2月19日(72歳)
日本長崎県佐世保市[1]
職業小説家映画監督
言語日本語
国籍 日本
最終学歴武蔵野美術大学造形学部中退
活動期間1976年 -
ジャンル小説随筆評論映画
代表作『限りなく透明に近いブルー』(1976年)
コインロッカー・ベイビーズ』(1980年)
愛と幻想のファシズム』(1987年)
69 sixty nine 』(1987年)
トパーズ』(1988年)
五分後の世界』(1994年)
イン ザ・ミソスープ』(1997年)
半島を出よ』(2005年)
歌うクジラ』(2010年)
主な受賞歴群像新人文学賞(1976年)
芥川龍之介賞(1976年)
野間文芸新人賞(1980年)
平林たい子文学賞(1996年)
読売文学賞(1998年)
谷崎潤一郎賞(2000年)
毎日出版文化賞(2005年)
野間文芸賞(2005年)
毎日芸術賞(2011年)
デビュー作『限りなく透明に近いブルー』(1976年)
影響を受けたもの

中上健次

影響を与えたもの

村上春樹庵野秀明葉真中顕新海誠[2]河村隆一チバユウスケ、クァク・キョンテクなど

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村上 龍(むらかみ りゅう、本名:村上 龍之助、1952年[1]昭和27年〉2月19日 - )は、日本小説家映画監督脚本家血液型はO型[3]

長崎県佐世保市出身。武蔵野美術大学在学中の1976年、福生の米軍キャンプで麻薬とセックスに溺れる退廃的な若者たちを描いた『限りなく透明に近いブルー』で群像新人文学賞、及び芥川龍之介賞を受賞。同作は100万部を売り上げた[4]。ベストセラー作家として、村上春樹とともに時代を代表する作家と目された。代表作に、『コインロッカー・ベイビーズ』『愛と幻想のファシズム』『69 sixty nine 』『トパーズ』『五分後の世界』『半島を出よ』などがある。

作家活動以外にも、『トパーズ』『KYOKO』など自作による映画の製作・監督を行なう、TV番組 『Ryu's Bar 気ままにいい夜』『日経スペシャル カンブリア宮殿』のホストを務める、一時期入れ込んでいたキューバ音楽のCDのプロデュースを行う、などマルチに才能を発揮した。

エッセイやメールマガジンを通して政治経済や社会問題に対して積極的にコメントしている。

2000年より約18年間芥川賞選考委員を務めていたが、2017年に開催された第158回を以て退任した[5]
来歴
デビューまで

1952年(昭和27年)2月、アメリカ海軍基地の街である長崎県佐世保市に生まれる。本名は村上龍之助である[6]。父は美術教師、母は数学教師であった[6]。一家が佐世保に家を建てて暮らし始めたのは、海軍工廠で栄えた佐世保の街に帝国海軍砲術兵曹長として赴任した祖父の代からである[7]。生後からの6年間は、この祖父の家に住み、隣家のジャズの音とパンパンの嬌声を聞いて育った[8]。佐世保市立御船小学校、佐世保市立光海中学校を経て、1967年長崎県立佐世保北高等学校に入学する。ラグビー部に入部するも半年で退部、その後新聞部に籍を置く[6]。高校在学中はロック・バンド「シーラカンス」を結成し、ドラムを担当した。3年生の夏、高校の屋上をバリケード封鎖し、無期謹慎処分となる[6]。1970年佐世保北高校を卒業、それに前後して再びロック・バンドを結成し、8ミリ映画を撮り、劇団を組織、市の文化会館を借りてロック・フェスティバルを行なった[9]。この年の春に上京し、現代思潮社の主宰する美学校のシルクスクリーン科に入学するも、半年で除籍となる[9]。同年10月から1972年2月まで、アメリカ軍横田基地に近い福生市に住んだ[9]

1972年、武蔵野美術大学に入学する。この頃より、福生での体験を元に小説を書き始める。1976年、アメリカ軍基地の町・福生で麻薬と乱交に明け暮れる若者の姿を描いた『限りなく透明に近いブルー』で第19回群像新人文学賞、第75回芥川龍之介賞を受賞し、デビューする[10]。ショッキングな内容からジャーナリズムにセンセーションを巻き起こした。批評は、新世代の表現であるという絶賛と、サブカルチャーにすぎないという批判の賛否真っ二つにわかれ、作品の解釈においても、ある者はアメリカ迎合であるとし、別の意見は「ヤンキー・ゴー・ホーム」であるとし、見解がわかれた[11]。本作は100万部を売り上げた。1978年、本作を映画化し、自ら監督を務めた。
1980年代

1980年(昭和55年)、コインロッカーに遺棄されて孤児院で育った二人の青年の破壊衝動を描いた近未来小説『コインロッカー・ベイビーズ』を書き下ろしで発表して第3回野間文芸新人賞を受賞する[12]。1982年、アメリカ人俳優ピーター・フォンダを招き、彼が演じる飛べなくなったスーパーマンを巡るミュージカル・コメディー映画『だいじょうぶマイ・フレンド』を原作・監督して、同時にそのノベライズを出版した。SFX技術を導入し、音楽に桑田佳祐加藤和彦来生たかおを起用した意欲作であったが、興行的に失敗し、批評家に酷評された[13]

1982年から84年にかけて雑誌『BRUTUS』にテニスに熱中する土地成金の二代目のステーキ・レストランのオーナーの二人の愛人との快楽的な恋愛とメランコリーを描いた『テニスボーイの憂鬱』を連載、1985年に単行本を刊行する[14]。この時期はテニスに熱中しており、世界六つの都市をまたにかけたテニス・ツアー観戦記『テニスボーイ・アラウンド・ザ・ワールド』(1987年)、テニスの入門書『快楽のテニス講座 that’s our tennis!』(1988年)も刊行している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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