村上頼勝
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 凡例村上頼勝 / 村上義明
村上頼勝像(大徳寺所蔵)
時代安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕生年不詳
死没慶長9年5月28日1604年6月25日
他諸説あり
別名義明、頼家
通称:政之助、次郎右衛門尉、周防守
戒名蓬雲院殿玉翁紹燦大禅定門
法雲寺殿玉翁紹燦大居士
照雲院玉翁浄珊大居士
墓所大徳寺大慈院(京都府京都市北区)他
官位従五位周防
幕府江戸幕府
主君丹羽長秀長重豊臣秀吉秀頼徳川家康
越後村上藩
氏族村上氏
父母父:諸説あり
母:専妙(法名)
子娘(戸田内記正室のち織田忠辰室)、清源院(烏丸光広室)
養子:義忠、忠勝
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村上 頼勝(むらかみ よりかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名越後村上藩初代藩主。
人物比定及び出自について

は頼勝、あるいは義明(よしあき / よしあきら)。通称は初め政之助、のち次郎右衛門尉、周防守を用いた。発給文書などから確実な諱は頼勝で、『東武実録』他の江戸中期以降の諸書には義明とあるものの、その典拠は不明[1]

村上藩村上氏の当主については、頼勝とその養嗣子忠勝の二代がともに周防守を称したためか両者の事績が混同され、義明一代であったかのように記述されることが多かった[2]。比較的成立の早い『東武実録』(1684年)では元和4年(1618年)に改易されたのは二代目の村上周防守で先代周防守の養子とするが[3]、『藩翰譜』(1702年)は「この家が一代であるか二代であるか覚束ない」とし[4]、さらに下った『断家譜』(1809年)は元和4年に改易されたのを義明としている[5]。現代に至っても、高柳光寿・松平年一共著『戦国人名辞典』(1962年)などの公刊書が頼勝と忠勝を同一人として扱う[6]

しかしながら、元和2年(1616年)頃と目される村上藩家老村上吉兵衛の羽黒神社宛書状によれば忠勝の母は当時健在であって、頼勝の母が天正13年(1585年)頃にはすでに死去していたと推定されること(後述)から、頼勝と忠勝は別人とせざるを得ない[7]慶長17年(1612年)以降の発給文書は全て「村上周防守忠勝」によるものであり、頼勝の名はない。横山貞裕は、頼勝が忠勝に改名し花押まで更改したとは、当時他に例がない以上認め難いとする[7]

頼勝は信濃村上氏に出自するものとされるが、その系譜は判然としない。『断家譜』では村上義清女と戸田武蔵守(勝成、重政)[注釈 1]の子であり、外祖父である義清の養子に入ったものとする[5]。『系図纂要』や『藩翰譜』では義清の長男である村上常陸介義利の子(つまり義清の孫)とされる[6]。『藩翰譜』は義清の子であることを疑う一方で、伊予村上氏の村上二郎の後胤ではないかとも推測している。頼勝は次郎右衛門尉を称し「丸に上の字」の家紋を用いているが、これらを伊予村上氏と結びつけたものか[1]。『寛政重修諸家譜』には記述がない。

横山は、諸書が村上藩主の村上周防守を一代であると解したために、その先代の村上周防守を村上義清に当てはめたものと推測している。『断家譜』は、頼勝と忠勝の外孫関係を誤って義清と義明の外孫関係としてしまったのであろう[7]
生涯
丹羽長秀に仕える

初名を政之助といい、信濃村上氏が没落した後、12歳のとき丹羽長秀の客分に招かれて供奉し、初陣で武勇を示したので寵愛されたと丹羽氏の家伝史料にある[注釈 2]

天正3年(1575年)3月、織田信長が公家・門跡領へ徳政令を発布し、丹羽長秀は代官としてその施行にあたった。「青蓮院文書」には、この際に対応した長秀の吏僚の一人として村上小六郎の名が見える[9]

天正6年(1578年)4月17日、別所重棟にあて、ともに長秀の家臣である長束承(新三郎)[注釈 3]と村上頼家(二郎右衛門尉)が連名で書状を送っている[注釈 4]。頼家の花押は頼勝のそれと酷似しており、同一人物と見られる[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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