凡例村上義日
『教導立志基
村上 義日(むらかみ よしてる)は、鎌倉時代末期の武将。父は信泰。弟に国信および信濃村上氏棟梁の信貞。子に朝日、義隆。官位は従五位下、左馬権頭。通称は彦四郎。大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)に仕え、鎌倉幕府との戦い元弘の乱における吉野城の戦いで、次男の義隆と共に討死した。史料上は数行の記述が残るのみだが、軍記物語『太平記』では村上 義光の表記で登場し、印象的な活躍が描かれ、護良親王の忠臣として知られるようになった。明治時代に従三位を追贈され、鎌倉宮村上社の祭神となった。
生涯菊池容斎『前賢故実』より「村上義光」
村上義日(義光)に関する数少ない史料は、洞院公定編『尊卑分脈』である[1]。また、『梅松論』上にも名が見える[3]。諱は『尊卑分脈』『梅松論』ともに「義日」の表記で記されるが[4][5][3]、『梅松論』の別写本(『群書類従』版底本)では「義暉」の表記が用いられている[3]。通称は彦四郎(『尊卑分脈』『梅松論』上)[5][3]。『尊卑分脈』によれば、位階は従五位下で、官職は写本の系統によって左馬権頭とするものと右馬権頭とするものがあるが[5]、『国史大辞典』「村上義光」(村田正志担当)は前者の説を採っている[2]。
信濃村上氏は、河内源氏の祖源頼信の次男源頼清を祖とする名門で、『尊卑分脈』によれば義光の父は村上信泰とされる[5]。また、国信・信貞(のち信濃村上氏棟梁)という弟と、朝日・義隆という子がいた[5]。
後醍醐天皇と鎌倉幕府との戦い元弘の乱(1331-1333年)が始まると、前半戦で敗北し一度は姿をくらました護良親王(後醍醐天皇の皇子)は、後半戦で再び姿を現し、吉野城に籠城した[6]。これに対し、元弘3年/正慶2年(1333年)初頭、鎌倉幕府は大将大仏高直・軍奉行工藤高景・使節二階堂貞藤(道蘊)らを将とする軍を編成した[6]。閏2月1日(西暦3月17日)、二階堂軍の攻撃によって吉野城は落城した[1]。『尊卑分脈』によれば、このとき義日とその次男の義隆が討死した[1][注釈 1]。