この項目では、瀬戸内海の水軍(海賊)について説明しています。日本のイラストレーターについては「村上水軍 (イラストレーター) 」をご覧ください。
能島村上家の過所船旗 天正玖年(1581年)
重要文化財(山口県文書館蔵)
村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海[1]で活動した水軍(海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり、その後大まかに能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家へ分かれた。
彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されている。また、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住む。主な活動は輸送、航行船の破壊・略奪や信書の開封・破棄等を通じた同盟関係の分断、それらを行わずに安全を保障する代わりに、芸予諸島の海峡を関所(札浦)に見立てた通航料の徴収である。平時は漁業にも従事した[2]。20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている[3]。代表的な表紋は「丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」など。
なお、2016年(平成28年)4月25日、日本遺産 第二期の19箇所の一つとして「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島?よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶?」として認定された。村上水軍が活躍した今治市本土と尾道市本土と芸予諸島に42項目の遺産対象がある[4]。 これら三つの村上家の起源ははっきりしないが、もともとは一つの家であったという。その起源として最も有力とされるのが、『尊卑分脈』に記された、河内源氏の庶流信濃村上氏を起源とする説である。平安時代末期に活躍した村上為国の弟・村上定国
起源
越智大島を始め伊予国(現在の愛媛県)各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗
(信濃村上氏の祖)に命じて多くの神社・仏閣を建立させたという伝承が残っており、もともと伊予は信濃村上氏と縁のある土地であったとされる。また能島村上氏の系図では、自らの出自を村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする村上源氏としている。因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。また信濃村上氏に残る系図には、源頼信の次男源頼清が村上天皇の皇子為平親王の子源憲定(村上憲定)の娘婿として村上姓を名乗ったとする、よく似た説が伝わっている。その他に、伊予越智氏の庶流との説もある。
この他、村上義弘は、愛媛県新居浜市沖の新居大島の生まれであると同島では伝えられており、水軍活動初期のものと思われる城跡や舟隠し跡などが残されている。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
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出典検索?: "村上水軍"
文献史料上、最も古い記録は南北朝時代である。1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)のもので、能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていた。南北朝時代の村上水軍は、因島・弓削島を中心に、芸予諸島近辺の制海権を握っており、海上に関所を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行ったりしていた。
能島村上氏は能島城(能島)、因島村上氏は ⇒長崎城 から ⇒余崎城、その後 ⇒青木城 へと移り(長崎城と青木城は因島、余崎城は向島)、来島村上氏は来島城(来島)を本拠として活動した。
戦国期には因島村上氏が毛利氏に臣従した。来島村上氏は毛利氏の支援する河野氏に臣従し、村上通康は越智姓を名乗ることを許された。能島村上氏は河野氏と友好関係を持っていたが、臣従はしなかった。その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担い、1555年(弘治元年)の厳島の戦い、1561年(永禄4年)の豊前簑島合戦、1567年(永禄10年)からの毛利氏の伊予出兵、1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いなどが知られる。しかし毛利氏と敵対する勢力に協力的な行動をとったために毛利氏から攻撃された時期もあった。
ただし、村上水軍の支配が実質的に及んだのは、斎灘や燧灘西部など芸予諸島近辺に限られ、瀬戸内海一円を支配した訳ではない。例えば瀬戸内海東部には塩飽諸島の塩飽衆、真鍋島の真鍋衆、日生諸島の日生衆が点在しており、大阪湾への遠征の際は、彼らに通行料を支払い安全を保証してもらっていたに過ぎず、塩飽衆などとの間に従属関係は存在しなかった。 来島村上氏は、早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされ、他の二家は能島村上氏が小早川氏(その後、嗣子が無く断絶)、因島村上氏は毛利家の家臣となった。1588年(天正16年)に豊臣秀吉が海賊停止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされる。
村上水軍の解体
村上水軍の一族
村上師清
能島村上氏
村上雅房
村上隆勝
村上義忠
村上武吉