村上正邦
[Wikipedia|▼Menu]

日本政治家村上 正邦むらかみ まさくに
防衛政務次官在任中の村上(1985年9月29日撮影)
生年月日 (1932-08-21) 1932年8月21日
出生地 日本 福岡県嘉穂郡
没年月日 (2020-09-10) 2020年9月10日(88歳没)
死没地 日本 埼玉県朝霞市
出身校拓殖大学政経学部卒業
前職東洋紡レスポワール従業員
所属政党(自由民主党→)
無所属
宗教生長の家[1]
第57代 労働大臣
内閣宮澤改造内閣
在任期間1992年12月12日 - 1993年8月9日
参議院議員
選挙区(全国区→)
比例区
当選回数4回
在任期間1980年7月8日 - 2001年2月26日
その他の職歴
第23代 自由民主党参議院議員会長
(総裁:小渕恵三森喜朗
1999年 - 2001年
テンプレートを表示

村上 正邦(むらかみ まさくに、1932年昭和7年〉8月21日 - 2020年令和2年〉9月10日[2])は、日本政治家

福岡県嘉穂郡出身。参議院議員(4期)、労働大臣志帥会会長(初代)を歴任した。在職中は参議院自民党において多大な影響力を持ち、「タカ派」「参院のドン」と呼ばれていた[3]
来歴
筑豊炭田

1932年、福岡県嘉穂郡に生まれる。父・要蔵、母・タネヨの次男。両親とも愛媛県西条市の出身であった。のちに地元の支持者が調べたところによると、先祖は西条藩に仕えた村上四郎左衛門忠朝という人物で、さらにさかのぼると村上水軍に発しているという。

父・要蔵は遊び好きで財産を失い、故郷を追われるようにして筑豊炭田に移る。父は「先き山(リーダー)、母は「後ろ向き」(助手)として炭鉱労働に従事した。そうした中、炭鉱住宅で正邦が生まれる。しかし要蔵の遊び癖は変わらず、夜逃げなどで筑豊炭田のあちこちを転々として過ごす。

戦後、田川郡添田町の三崎炭鉱の炭住から川崎町定時制高校に通いながら、昼間は三崎炭鉱労働組合の事務所で給仕として働いた。組合長の山本文男(のちの添田町長、全国町村会会長)の引きで測量課の職員として、三崎炭鉱の正式社員となる。一方、組合運動も続け、代議員も勤める。1951年(昭和26年)には組合の御用化に憤慨して書記長選挙に立候補するが、落選する。

そうした中、定時制高校の恩師の勧めで、1952年(昭和27年)拓殖大学政経学部の補欠試験を受け、入学[4]
拓大時代

拓大時代は先輩の坂田清の影響で民族派の政治運動に熱中した。当時、拓殖大学はGHQに「軍国主義の手先として侵略に奉仕した」とされ、解散は免れたものの校名を「紅陵大学」と改称されていた。村上らは全校学生の署名を集め、総長と交渉するなどして、元の拓殖大学に校名を戻すことに成功し、「拓大に村上あり」と知られるようになる。一方、応援団に所属した[5]
東洋紡レスポワール

卒業後は新聞記者を目指したが、希望は叶えられなかった。ブラジルに行くことを目指して、同地に合弁会社のある東洋紡の門を叩くが、採用は終わっており、子会社の東洋紡レスポワールに入社。営業部に配属され、洋服、シャツ、婦人物生地などの販売に従事。応援団のバンカラ気質とあまりに違った世界に戸惑うが、派手な売れ残りの生地を赤線業者に売りさばくなど、業績を上げる[6]

1959年(昭和34年)、三崎炭鉱時代に知り合った故郷出身の女性と結婚する[7]
玉置和郎との出会い

1960年(昭和35年)、東洋紡とブラジルの合弁会社が倒産したのを機にレスポワールを退社する。当時から同級生のつてで村上は国会議員会館に出入りしていた。和歌山県選出の早川崇衆議院議員を介して、和歌山県から出てきていた玉置和郎と知り合う。当時、玉置は自民党青年部の嘱託であった。

当時は玉置も村上も後の支持基盤である宗教法人生長の家とは無関係であった。

国会議員志望の玉置と村上は意気投合し、共同で下水道事業を行う。当時、宗教団体の中で政治に熱心で、候補者を持っていなかったのが生長の家だった。早川崇は三木武夫の紹介状を持たせ、玉置と村上を生長の家総裁・谷口雅春と初めて会わせる[8]

「そのときにはもう私は、嘘はいっぺんに見抜かれるという感じがしましたよ。何しろ票ほしさに会いに行っているんだからね。谷口先生にじっと顔を見られるとウッという感じがしてね。(笑)」 [9]
生長の家に入信

玉置はこれを機に生長の家の幹部錬成を受ける。玉置は愛国者として谷口に支持され、自民党公認、生長の家の推薦候補として、1957年(昭和32年)参議院全国区に出馬する。しかし、信徒からは「票目当ての偽物」と見られ、70万あると言われた生長の家の票のうち30万しか得られず、落選する。

玉置と村上共同の下水道事業も落選後、倒産し、二人は辛酸を舐める。票欲しさの下心を信徒に見透かされていると覚った玉置はますます真剣に生長の家の教えを学ぶようになり、その玉置から「俺と一緒になって生長の家に入ってくれ。でなきゃ、俺は本物になれない」と懇願された村上も1962年(昭和37年)、錬成を受ける[10]。村上は憎んでいた遊び人の父に感謝する心境になり、人生観が変わる。村上は生長の家の誌友(信徒)となる[11]
元号法制化

1964年(昭和39年)に生長の家政治連合(生政連)が発足し、村上はその国民運動本部長となる[要出典]。また、「日本を守る会」の国事対策局長に就任する[要出典]。当時、生長の家は靖国神社へのスタンスの違いにより、新日本宗教団体連合会(新宗連)を脱退していた[要出典]。

そうした中、1965年(昭和40年)、玉置和郎は参議院全国区に立候補し、85万票を得て当選した[12]。村上は玉置の秘書となる。昭和46年、玉置の二度目の当選の後、村上は教団に戻り、生政連の仕事とともに、谷口雅春の巡錫に随行する[要出典]。

1974年(昭和49年)、村上は参議院議員全国区に初めて立候補する。しかし55万票で次々点で落選。企業丸抱え選挙や、タレント議員の登場で当選ラインが上がったのが敗因だった[要出典]。

この選挙中、当時内閣総理大臣であった田中角栄から直接電話があり、「村上君、お前な、一万五千足りねぇよ」と言って自ら選挙カーに乗ると申し出たが、村上は福田赳夫派の候補だったので、義理立てして断った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:203 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef