この項目では、作家について記述しています。平将門の研究者の同名の人物については「村上春樹 (国文学者)」をご覧ください。
村上 春樹
(むらかみ はるき)
エルサレム賞授賞式でスピーチを行う村上(2009年)
誕生 (1949-01-12) 1949年1月12日(75歳)
日本・京都府京都市
職業小説家、翻訳家
言語日本語
国籍 日本
教育文学士
最終学歴早稲田大学第一文学部演劇専修
活動期間1979年 -
ジャンル小説・翻訳・随筆・紀行文・ノンフィクション
主題社会体制と個人
代表作『風の歌を聴け』(1979年)
『1973年のピンボール』(1980年)
『羊をめぐる冒険』(1982年)
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)
『ノルウェイの森』(1987年)
『ねじまき鳥クロニクル』(1994年・1995年)
『海辺のカフカ』(2002年)
『1Q84』(2009年・2010年)
『騎士団長殺し』(2017年)
『街とその不確かな壁』(2023年)
主な受賞歴#年譜を参照
デビュー作『風の歌を聴け』(1979年)
配偶者村上陽子(1971年10月[1] - )
影響を受けたもの
イマヌエル・カント
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
カール・グスタフ・ユング
ジークムント・フロイト
ギリシア悲劇、ノモンハン事件
阪神・淡路大震災
地下鉄サリン事件
レイモンド・チャンドラー
フランシス・コッポラ
ロス・マクドナルド
ジャン=リュック・ゴダール
スティーブン・キング
フランツ・カフカ
ウィリアム・フォークナー
スコット・フィッツジェラルド
ジョン・アーヴィング
フョードル・ドストエフスキー
J・D・サリンジャー
アルベール・カミュ
アントン・チェーホフ
ジャック・ケルアック
レイモンド・カーヴァー
トルーマン・カポーティ
ジョゼフ・コンラッド
リチャード・ブローティガン
カート・ヴォネガット
ジム・モリソン
ジョージ・オーウェル
雨月物語、源氏物語、村上龍
河合隼雄、夏目漱石、三島由紀夫
安部公房、大江健三郎など多数
影響を与えたもの
蜷川幸雄、小川洋子、古川日出男
安倍吉俊、新海誠、スガシカオ
舞城王太郎、川上未映子、麻枝准
河野裕、甲田純生、芳川泰久
幾原邦彦、高橋源一郎、加藤典洋
藤原聡、濱口竜介、三浦しをん
吉本隆明、狗飼恭子、荒木スミシ
素樹文生、余華、金衍洙
カズオ・イシグロ
デイヴィッド・ミッチェル
パティ・スミス
トム・ヨーク
トラン・アン・ユン
ジェイ・ルービン
アルフレッド・バーンバウム
フィリップ・ガブリエルなど多数
署名
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示
村上 春樹(むらかみ はるき、英語: Haruki Murakami、1949年〈昭和24年〉1月12日 - )は、日本の小説家・翻訳家。京都府京都市伏見区生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市育ち。
早稲田大学在学中にジャズ喫茶を開く。1979年、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。1987年発表の『ノルウェイの森』は2009年時点で上下巻1000万部を売るベストセラーとなり[2]、これをきっかけに村上春樹ブームが起きる。その他の主な作品に『羊をめぐる冒険』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』、『1Q84』などがある[3]。それらの作品は、50ヵ国語以上で翻訳されている。
日本国外でも人気が高く、柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ作家の一人と評している[4]。2006年、フランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞し[5]、以後日本の作家の中でノーベル文学賞の最有力候補と見なされている[注 1]。デビュー以来、翻訳も精力的に行い、スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァー、トルーマン・カポーティ、レイモンド・チャンドラーほか多数の作家の作品を訳している。また、随筆・紀行文・ノンフィクション等も出版している[6]。 1949年、京都府京都市伏見区に出生する。父親の村上千秋[7]が甲陽学院中学校の教師として赴任したため、まもなく兵庫県西宮市の夙川に転居。父は京都府京都市蹴上安養寺住職村上弁識の二男であり[8]、仏教系の西山専門学校を経て京都帝国大学文学部卒[9]、学業の途中で日中戦争に巻き込まれ、それによって深くトラウマを負った[10]。母は大阪・船場の商家の娘であった[11]。また両親ともに高校の国語教師であり、本好きの親の影響を受け読書家に育つ[12]。1955年に西宮市立浜脇小学校入学。4年生の頃から、急に本が好きになり、[13]ジュール・ヴェルヌや、デュマの小説、ホームズシリーズやルパンシリーズを読むようになった。また、娯楽がなかったため、父・千秋に連れられ、西部劇や戦争映画を見た。西宮市立香櫨園小学校卒業[14]。芦屋市立精道中学校卒業[15]。 1964年に兵庫県立神戸高等学校に進学。この頃から、国語教師であった父に『枕草子』や『平家物語』といった古典文学を暗唱させられ、その反動で海外文学に興味を移す[16]。最初に読んだ長編小説は、ショーロホフの『静かなドン』だった。この頃は、ツケで本が買え、[17]親が購読していた河出書房の『世界文学全集』と中央公論社の『世界の文学』を一冊一冊読み上げながら10代を過ごした。また中学時代から中央公論社の全集『世界の歴史』を繰り返し読む[注 2]。在学中には新聞委員会に所属し、2年生の時には編集長も務めた。また、初めてロス・マクドナルドの『わが名はアーチャー』をペーパーバックで読む。 1年の浪人生活ののち、1968年に早稲田大学第一文学部に入学、演劇専修へ進む[注 3]。在学中は演劇博物館で映画の脚本を読みふけり、映画脚本家を目指してシナリオを執筆するなどしていたが[20]、大学へはほとんど行かず、新宿でレコード屋のアルバイトなどをしながら、歌舞伎町東映でほとんど毎週ヤクザ映画を観た[21]。また歌舞伎町のジャズ喫茶に入り浸る日々を送る。1970年代初め、東京都千代田区水道橋にあったジャズ喫茶「水道橋スウィング」の従業員となった[22]。
来歴
生い立ち