村上国清
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例山浦景国
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文15年(1546年
死没1592年
改名村上国清→山浦国清→景国
別名源五、源吾、通称:蔵人
主君上杉謙信景勝
氏族信濃村上氏山浦上杉家
父母父:村上義清[1]、母:小笠原長棟
猶父:上杉謙信
兄弟村上義利、村上義勝、村上義照、
村上義邦、景国、村上義満室、内山清宗室、村上義房室、高梨頼治正室、
会田清幸室、
養兄弟:屋代正国室、上杉景勝上杉景虎上条義春
妻正室:上杉謙信養女(朝倉義景娘)
子幸清、高国

山浦 景国(やまうら かげくに)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将上杉氏の家臣。
生涯

天文22年(1553年)、父・村上義清と共に武田晴信に追われて越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼ってその猶子となり、謙信の養女を娶る。女系ではあるが上杉重房の血を引いていたので、後に当時断絶していた山浦上杉家を継いで山浦国清と名乗る。初め、客将として謙信に仕え、川中島の戦い越中国での戦いなど、謙信に従って各地を転戦。謙信死後は上杉景勝に仕えて御館の乱の功績により、景勝から一字を与えられて山浦景国と名乗ることを許された。

天正10年(1582年)には、海津城主となり父の旧領を回復する。しかし、元大名であったことが災いし、他国の大名、武将と書状を通じて交流してることで他家と内通していると疑いを掛けられ、海津城を追い出され越後に償還され、根知城主にさせられた。その際、旧村上家臣も景国から離れて散り散りにされたと言われる。

天正22年(1592年)没。

山浦家は後に景勝の側室桂岩院の実家四辻家出身の山浦光則が家名を継いだ。
脚注^ 祖父説有り。










山浦上杉家第4代当主
宗家

憲栄1368-1378

房方1380-1421

朝方1421-1422

頼方1422-1431以前

房朝1431以前-1449

房定1449-1494

房能1494-1508

定実1508-1550 | 断絶

分家・支流
山本寺上杉家

朝定

定種

定景

定長

景長

勝長

勝政

勝興

勝安

勝紀

孝長

勝久

勝茂

勝強



山浦上杉家
憲重

頼方

頼藤

景国

(高国?)

光則

能範

康長



上条上杉家
清方

房定

房実

定憲

頼房

政繁

義春

長員

長政

長貞

長之

長宗

義陳

知義

義枝

義寿

義長

義達

義正

義為

義順






更新日時:2018年12月30日(日)22:59
取得日時:2019/07/17 06:42


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:7811 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef