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村上 世彰
生誕 (1959-08-11) 1959年8月11日(64歳)
国籍 日本
職業実業家
子供長女:村上絢
次女:村上フレンツェル玲
公式サイト村上財団のホームページ(2016年10月15日開設)
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村上 世彰(むらかみ よしあき、1959年8月11日 - )は、シンガポール在住の日本人投資家、相場師。大阪府大阪市出身。東京大学法学部卒業。 M&Aコンサルティングを核とする村上ファンドの創設者。東京大学卒業後、通商産業省(現経済産業省)に入省し公務員として約16年勤務する中で、日本経済の永続的な成長のためにはコーポレート・ガバナンスが大切であることを実感し、自らがプレーヤーとなって変えていこうと決意して40歳を目前にファンドを立ち上げる[1]。 現金や遊休優良資産を抱えていながら有効活用していない上場会社の株式を取得し、日本の株主の多くが(もしくは一般化された日本人像として)経営関与には消極的な中で、積極的に株主提案を行い企業価値の向上を計り、株主を軽視する経営者に対しては株主総会などで経営陣を批判・叱咤することから「物言う株主」として注目を集めた。 投資対象とした会社の株を購入した上で、利益の上がる事業に専念させて会社の株主価値向上を目指す投資手法を採った。代表的な案件に、東京スタイル、ニッポン放送、阪神電気鉄道などがある。投資規模が拡大の一途をたどる最中、ファンド設立から6年後、いまだ法的解釈は賛否両論あるものの、ニッポン放送株式の内部者取引の容疑で逮捕された。 主義主張に「企業にとってのお金は人間の身体でいうなら血液、企業成長にはお金(血液)の流れが大切であり、流れが滞ると企業の健康に悪い影響が出る」というものがある[1]。 村上ファンドと近い時期に、同じく積極的な経営手法で注目された元ライブドア社長堀江貴文と関連して語られることも多い。 ニックネームは「せしょう」または「せいしょう」。世彰を本来の「よしあき」でなく、音読みさせて「せしょう」と読む人が多いためだという。小学校・中学校時代は、「よしあき」ではなく「せいしょう」と呼ばれていたため、本名の呼び名を知らない人もいた。 コーポレートガバナンス・コードやスチュワードシップ・コード、伊藤レポートといった上場企業や機関投資家に対する指針が日本国政府によって示された中、自身が持ち続けてきた上場企業のあるべき姿についての信念も単行本の形で世に出すことを決意し、2017年6月、自著『生涯投資家』(文藝春秋)を上梓。 株は暴落時に買うか、上昇トレンドに乗ってから買うかについて、村上はあくまでもファンダメンタルを重視し「1000円の価値があると思われる株が500円になっている」と判断できるならば、バリュー面では買いだと考える。基本的には大きく下げた場面で買うが、どんなに大きく下落しようと、資産や収益の状況から魅力的でないなら「買い」とは判断しない。同時に経済や相場のトレンドも意識する。 父の教えである「上がり始めたら買え、下がり始めたら売れ」という言葉を守っている。買いは、悪材料がほとんど株価に織り込まれ、これ以上株価が下げづらいという状況で、さらに底を打って上がり始めるのを確認してから買うというスタンスである。 決算発表前後の投資家の態度について、決算が予想されているよりも良い内容になりそうだと思えば決算発表前に買うこともあるし、予想されているよりも悪くなりそうだと思えば決算発表前に売ることもあり、普段からその業界を勉強し、チェックし、経済や世界の動きを確認。その会社について気になることがあれば、決算発表の1カ月くらい前までに問い合わせして、今どんな状況なのか確認すべきとする。 会社が決算で業績予想の上方修正をしたにもかかわらず、株価が下落するのは、上方修正自体が、多くの投資家から予想されていたため(株価に織り込まれる)であり、自分の考えた投資シナリオが狂い始めてきたと判断できるような変化があったのなら、売却も検討すべきと発言している[2]。 損切りについては、自分の投資判断が間違っていたということがわかれば、価格にかかわらず損切りする。ただし、村上が最も得意とするバリュー株 ただ、儲かっても舞い上がって強気になることはなく、また大失敗してもさほど落ち込むこともないという。メンタルは若い頃より強く、落ち込むということはなくて、「どうして失敗したのか」、「次からどうしたらいいか」ということを考える姿勢は若いころから変わっていない。結果にかかわりなく、考えることの重要性を説いている[2]。 村上は2020年8月現在、過去10年間に2度大きな失敗を経験している。2011年のギリシャ国債 主に台湾との貿易を営んでいた華僑貿易商である在日台湾人の村上勇の次男として大阪・道頓堀界隈に生まれる(台湾生まれの父は日本兵として徴兵され、復員船で帰還を果たした途端、日本国政府から日本国籍を取り上げられて台湾に帰され、1950年代に日本へ戻り、日本国籍を取得した[3])。大阪市立道仁小学校を卒業。 なお、小学校3年生頃には、すでに株取引のキャリアはスタートした。これは、父親が、月々の小遣いの支払いを廃止する代わりに、大学卒業までの小遣いとして100万円の現金を渡したことに端を発するもので、この資金を元手に、株式市場で小遣いを捻出していたとされる。
人物
相場観
買い
損切り
失敗
経歴
M&Aコンサルティング設立前