材木商人
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竹売(左・部分)、材木売(右)の歌合(『三十二番職人歌合』、1494年、その1838年の模写)。小刀を帯刀している。

材木売(ざいもくうり)は、中世12世紀 - 16世紀)期に存在した日本の行商人[1]平安時代9世紀 - 12世紀)以降、材木を仕入れて販売した行商・店舗、およびその業者等を総称して、材木商人(ざいもくしょうにん)、材木商(ざいもくしょう)、材木屋(ざいもくや)と呼び[2]、本項ではこれについても扱う。
略歴・概要堀川に架かる現在の一条戻橋京都市、2004年撮影)。現在の和賀江島材木座海岸鎌倉市、1983年撮影)。現在の木津川木津川市加茂町、2006年撮影)近代以降の木場東京都江東区、1933年撮影)。

9世紀後半、879年元慶三年)の京都祇園社(現在の八坂神社)の記録に、堀川十二町(現在の堀川今出川から堀川御池の範囲)の「材木商人」について記されている[2][3]。堀川十二町の寄進によって、同地は祇園社の領地となり、「材木商人」たちは同社を本所とした「神人」の地位を得た[2]。『京都嵯峨材木史』によれば、堀川の地に「材木商人」が居を構えて生業を始めたのは、794年(延暦13年)の平安京の造営に際して、輸送された木材が同地で引き上げられて使用されたことによる[3]。現在はほぼ暗渠であるが、当時の堀川は、川幅が4丈(約12.1メートル)あり、貯木場として成立しえたという[3]。堀川十二町の「材木商人」は「堀川材木神人」(ほりかわざいもくじにん)と呼ばれた[4]

現在も地名に残る神奈川県鎌倉市材木座は、鎌倉時代(12世紀 - 14世紀)に、相模国鎌倉郡和賀江津に設置された材木座」に由来する[5]。同地に現存する人工島和賀江島は、1232年(貞永元年)に築かれた港湾施設である[5]興福寺塔頭一乗院(現存せず)が支配した山城国相楽郡木津(現在の京都府木津川市木津)にも、鎌倉と同時期の12世紀に「材木座」が置かれたとされる[6]

室町時代に入り、1459年(長禄3年)には、堀川十二町の「堀川材木神人」たちは「材木座」を結成、堀川の貯木場を独占、大鋸挽たちの製材した「大鋸板」(おがいた)の販売権を独占した[3]。この時代には、丹波国(現在の京都府中部ほか)、近江国(現在の滋賀県)、美濃国(現在の岐阜県南部)、安芸国(現在の広島県西部)、あるいは四国からの木材が、堀川の材木座に集約されるようになっていた[5]。材木座は、京都堀川や木津、鎌倉和賀江津のほか、大和国奈良和泉国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に存在したことが知られている[5]。この時代、木津で水揚げした材木は、京都・奈良で振売の販売を行っていた[7]。「材木座」を参照

15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「竹売」とともに「材木売」として紹介され、を穿き、板材を束ねる姿が描かれている[1]。同歌合は京都の都市部に見られる「職人」(商工業者芸能者)をピックアップしており、図においてこの「材木売」が小刀を帯刀しているのは、身分が「神人」であるからであり、「堀川材木神人」であることを示している。この歌合に載せられた歌は、

よし野木の 材木なれば あたひをも 花におほせて はなたかるなり

というもので、吉野材の価値を歌っている[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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