杏里
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この項目では、日本の歌手について説明しています。その他の用法については「アンリ」をご覧ください。
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杏里
ANRI
出生名川島 栄子(かわしま えいこ)
別名ANRI
生誕 (1961-08-31) 1961年8月31日(62歳)
出身地 日本 神奈川県大和市
ジャンルJ-POP
シティ・ポップ
アニメソング
職業歌手
シンガーソングライター
作曲家
作詞家
活動期間1978年 -
レーベルフォーライフ・レコード
(1978年 - 2000年)
日本クラウン/ドルフィンハーツ
(2000年 - 2003年)
コロムビアミュージックエンタテインメント
(2004年 - 2005年)
ユニバーサルミュージック
(2007年 - 2010年)
ワーナーミュージック・ジャパン
(2011年)
IVY Records
(2013年 - )
公式サイトhttps://anri-music.com/

杏里(あんり、1961年8月31日[1] - )は、日本歌手シンガーソングライター作曲家作詞家。作詞作曲時およびフォーライフ・レコード所属時[注 1]のアーティスト名、ANRI(アンリ)。本名は川島 栄子(かわしま えいこ)[2]

神奈川県出身[3]アメリカロサンゼルス在住[4]。所属レーベルはIVY Records。身長168cm[3]血液型A型。
経歴

神奈川県大和市出身[3][5]。幼少時からピアノを習い、長兄の影響でドライブの時によく聴いていたポール・モーリアをよくコピーしたり[6]、フォーク、ニューミュージックが盛んな時代に、松任谷由実(当時は荒井由実)、尾崎亜美かぐや姫吉田拓郎井上陽水などの邦楽、また洋楽などあらゆるジャンルの楽曲を聴いて育った。

杏里の歌手名は、当時の所属事務所ボンド企画の社長で高杉敬二の娘である河村和奈へ出生時に名づけるつもりだった[6][7]

夏休みにロサンゼルスでレコーディング。1978年、17歳(高校2年生、神奈川県立希望ヶ丘高等学校定時制)の時、後にスタンダードナンバーになった「オリビアを聴きながら」でデビュー。その後も積極的に海外レコーディングを行い、海外のアーティストやミュージシャンとのコラボレーションが多い。特に、ピーボ・ブライソンフィリップ・ベイリーアース・ウィンド・アンド・ファイアー)、ジョニー・ギル(ニュー・エディション、LSG)、マイケル・フランクスなど、アメリカの偉大なアーティストとのデュエットが多く、外国人バックダンサーを日本で初めて起用するなど、常にグローバルで革新的なスタイルを切り拓いてきた。現在も日本と海外のミュージシャンによるグローバルバンドでのライブ活動を行っている。(外国人バックダンサーに関しては浅野ゆう子が1976年に起用しているが、ジャンルは歌謡曲でありシティポップではない。)

デビュー後、歌唱力が評価されたものの数年間はセールスが伸び悩み、80年代アイドルの曲調に寄せた「コットン気分」、ヨーロピアンサウンドに寄せた『哀しみの孔雀』など曲調を転々とさせてリリースを続けるもののヒットに結びつかなかった。本人にとっても「一番苦しかった時期」だったという。

1982年に当時のバックバンド『スプリット・ココナッツ』のメンバーでもあった小林武史が作曲して花王CMで使われたシングル盤『思いきりアメリカン』と同シングル曲を収録したベスト・アルバム『思いきりアメリカン ?I Love Poping World,Anri?』がヒット、全盛期の杏里の代名詞とも言える「夏」「海」のイメージが固まった。7月には初のエッセイ集『思いきりアメリカン』を発売。

長渕剛B'zなどを手がけた舞台監督であるトゥエンティワンクリエイトの市川社長の協力のもと、人をひきつけるステージ、アーティスト杏里を創り上げるべく新しい試みに取り組む。角松敏生や小林の他に、ブレッド&バターが作品提供して、杏里が作詞作曲したタイトル曲を含む4枚目のオリジナルアルバム『Heaven Beach』を発表して話題になり当時の若者の心をつかんだ。

1983年には当時まだ無名で同事務所所属であった角松に5枚目のアルバム『Bi・Ki・Ni』のA面5曲プロデュースを任せて、洗練された音楽のイメージ、アーティスト杏里を誕生させた。6月に発表した『Bi・Ki・Ni』は自己最高のオリコンアルバムチャート27位を記録した。8月には日本テレビから依頼を受けアニメ『キャッツ?アイ』の主題歌「CAT'S EYE」のシングルを発売した。アニメの歌ということで本人も初めは戸惑いがあったが、楽曲の良さから自分を変えるきっかけになるかもという予感がしたそうで[8]、結果的に大ヒットし、自身初のオリコン1位に輝き、杏里の代表曲の一つとなった。その直後に発売したシングル「悲しみがとまらない」(角松敏生によるプロデュース)も連続大ヒットし、2曲そろってベスト10入りを果たした。12月にはこれら2大ヒットシングルを収録した角松フルプロデュースのアルバム『Timely!!』を発表してこちらもオリコン1位の大ヒットとなり、年末の第34回NHK紅白歌合戦に初出場して杏里は不動の位置を得ることになる。

1984年には日清食品のカップ焼きそば日清焼そばU.F.O.のCMソングに使われて、自身もCM出演したシングル「気ままにREFLECTION」がヒットし、同曲のアルバムバージョンを収録したロサンゼルスレコーディングのアルバム『COOOL』を発表後にマーマレードから独立して、個人事務所であるコロニーサーフを立ち上げる。1985年ポカリスエットのCMソング、「DEJA-VU(デジャヴー)」が起用されるが、レコード化やCD化されることはなかった。独立後に、当時としては珍しかった外国人ダンサーやコーラスを自身のツアーメンバーに迎えて今まで以上にダンサブルで魅せるステージ活動を行いつつ、シンセサイザーを多用して制作された『WAVE』を発表、角松や小林などが参加したアルバムはこれが集大成となった。

1986年にはアジアンテイストな楽曲を多数収録した『MYSTIQUE』を発表。本作以降は吉元由美が収録曲の多くで作詞を担当、世界観が固まり全盛期を迎えてゆく。同年には井上鑑をサウンドプロデューサーに迎えロンドンレコーディングした意欲作『TROUBLE IN PARADISE』を発表した(ちなみに、元イエスのドラマー、ビル・ブルーフォードや、後にTOTOのドラマーとなるサイモン・フィリップスも参加している。)

1987年には、ハワイ出身のバンド、カラパナのサポートで、日本のポップスでは初めてのハワイ公演を成功させ、現地のメディアでも取り上げられる。以後、計7回のハワイ公演を行っている。

1987年発売のアルバム『SUMMER FAREWELLS』以降、杏里本人によるセルフプロデュースが始まり、引き続き作詞を担当する吉元由美に加え、編曲に小倉泰治を迎えて共同で楽曲制作したり、その後本格的に杏里自身で全楽曲の作曲に取りかかり、ソングライターとしてアイドルなどに楽曲提供するなど、アーティストとしてさらにその名を上げていった。夏によく合うダンサブルな曲やバラード曲が多いのが特徴であった。1988年にはアルバム『BOOGIE WOOGIE MAINLAND』、ベストアルバム『MY FAVORITE SONGS』、シングル『SUMMER CANDLES』、『スノーフレイクの街角』が連続大ヒットした。

最大のピークは1989年発売のアルバム『CIRCUIT of RAINBOW』(第31回日本レコード大賞・アルバム大賞受賞)から1991年の『NEUTRAL』にかけての3作品で、中でも『NEUTRAL』は、自身唯一のミリオン出荷を達成している。この時期にはカナダドライジンジャーエール東芝ビデオデッキ「ARENA」、カネボウ「テスティモルージュ」のCMに出演した(CMソングも担当)。

1990年には、最初で最後の全国アリーナツアーを敢行。1993年にはシングル「ドルフィン・リング」が大ヒットする。1994年には、1998年開催の長野オリンピック公式テーマソング「SHARE 瞳の中のヒーロー」を発表。長野オリンピック閉会式では「故郷」を歌った[9]

1990年代後半になると、所属するフォーライフ・レコードの経営が傾いていった。井上陽水らとともにフォーライフの稼ぎ頭となっていた杏里であったが、同社の経営は悪化の一途をたどり、2000年日本クラウンへと移籍した。フォーライフはその翌年に倒産している。

2007年10月1日より月 - 金フジテレビ系、お昼前の情報バラエティ番組『ハピふる!』のテーマソング「もう悲しくない?ハピふる!?」を担当。3月3日より「もう悲しくない?ハピふる!?」着うたの先行配信開始。4月9日より「もう悲しくない?ハピふる!?」デビュー30周年アニヴァーサリーエディションとしてCD+DVDの限定盤、および通常盤CDがリリースされた(ユニバーサル・ミュージック)。

2010年10月、JTルーツCMソング根の歌」を歌うユニットコーラスジャパンに参加。

2011年4月には、ユニバーサルミュージックからワーナーミュージックジャパンへ移籍することが発表され、7月には移籍第1弾でフォーライフ時代の楽曲や、尾崎亜美が杏里のため30年ぶりに製作した新曲や日本航空のテーマ曲「I Will Be There with You ?あふれる想い」(作曲:デイヴィッド・フォスター)を含むベストアルバム『Heart to Heart ?with you?』がリリースされた。

2013年にはアイビーレコードへ移籍して、7月10日には、80年代のオリジナルアルバムから選曲した楽曲を全曲新録音の35周年記念アルバム『Surf City -Coool Breeze-』をリリースした。その後も毎年リリースを続け、2019年には世界的な名ドラマーであるスティーヴ・ガッド率いる、スティーヴ・ガッド・バンドとロサンぜルスでレコーディングした新曲「Duke‘s Anthem ~星空のどこかで~」「忘れられない贈りもの」「Crescent Moon」をリリース。

2016年頃から、欧米を中心とした海外でのジャパニーズ・シティポップ・ブームによって、杏里はシティポップのクイーンと讃えられている[10][11]
人物

ファーストアルバムのレコーディングで訪れたロサンゼルスをデビュー当時からとても気に入っていて、いつかはLAで生活したいと当時から考えており、2000年に移住してからは、LAを拠点に国内外で音楽活動をしている。


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