李鴻章
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政治家李 鴻章Li Hung Chang
李鴻章(1896年
生年月日道光3年1月5日1823年2月15日
出生地 安徽省廬州府合肥県磨店郷
没年月日光緒27年9月27日1901年11月7日
死没地 北京
出身校翰林院
称号太子太傅文華殿大学士商務大臣北洋大臣直隷総督部堂一等粛毅伯(北京議定書の記載より)
配偶者周氏
趙小蓮(継室)
莫氏(側室)
江蘇巡撫
在任期間1862年 - 1865年
皇帝同治帝
両江総督代理
在任期間1865年 - 1866年
皇帝同治帝
湖広総督
在任期間1867年 - 1870年
皇帝同治帝
直隷総督北洋通商大臣
在任期間1871年 - 1883年
皇帝同治帝(1861年 - 1875年)
光緒帝(1875年 - 1908年)
直隷総督兼北洋通商大臣
在任期間1884年 - 1895年
皇帝光緒帝
その他の職歴
両広総督
(1899年 - 1900年)
直隷総督兼北洋通商大臣
(1900年 - 1901年)
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李 鴻章(り こうしょう、リー・ホンチャン、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: L? Hongzh?ng、道光3年1月5日1823年2月15日〉- 光緒27年9月27日1901年11月7日〉)は、中国清代政治家は少?(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力した。日清戦争の講和条約である下関条約で清側の欽差大臣(全権大使)として調印を行った。
生涯
曽国藩期待の弟子

道光3年1月5日(1823年2月15日)、安徽省廬州府合肥県磨店郷出身で名士李文安の次男として生まれた。兄は李瀚章。弟は李鶴章・李蘊章・李鳳章・李昭慶。

士大夫の家系であり父が進士だったことから、幼少期から一族の期待を背負い勉強に励み、道光20年(1840年)に科挙一次試験に合格、4年後の道光24年(1844年)に二次試験の郷試も合格した。更に父の友人だった曽国藩の門下生となり勉強に一層励み、道光27年(1847年)の会試も合格し進士となる(同期には沈葆がいる)。翰林院入りしてからも曽国藩との師弟関係は続き、彼の下で庶吉士・編修と共に順調に出世階段を昇っていった。

そんな折、咸豊元年(1851年)に起こった太平天国の乱に清が動揺すると、李鴻章の身辺にも変化が訪れる。咸豊2年(1852年)に曽国藩が江西省へ転勤、そこで政府の命令を受けて湖南省へ移動、湘軍を創設して太平天国との戦いを開始したのだ。咸豊3年(1853年)に李鴻章にも太平天国鎮圧のために転属命令が出され、友人の呂賢基と共に故郷の安徽省へ戻り安徽巡撫代理周天爵の幕僚となり、合肥を本拠地として団練を率いて太平天国軍との戦いに加わった。

しかし戦果は思うように上がらず、咸豊4年(1854年)1月に合肥を太平天国に占拠され安徽巡撫江忠源が自殺すると、後任の巡撫福済に仕えた。咸豊5年(1855年)7月に父の死去という苦難に遭いながらも11月に合肥を奪還したが、3年後の咸豊8年(1858年)8月に再び合肥を奪い返され、抵抗を諦めた李鴻章は家族を連れて曽国藩の下へ逃れた。湘軍を江西省に駐屯させていた曽国藩には兄の李瀚章を始め弟達も従っており、李鴻章は家族揃って曽国藩の庇護に入った。

曽国藩の幕僚として湘軍に属していた時期は官僚としての下働きのみであり、目立った活躍は見られない。しかし曽国藩は李鴻章の才能を認めていて、湖南省出身が多い湘軍で孤立しがちな李鴻章に協調を重視して厳しく接したり、軍務に携わらせ修養に心を砕き、将来は一軍を率いる将へ成長させることを友人の胡林翼に書き送っている。やがて咸豊11年(1861年)9月に湘軍が安徽省の省都の安慶を陥落させ太平天国を西から圧迫すると、反対側の東から救援要請が11月に曽国藩の元へ舞い込み、江蘇省上海から名士の銭鼎銘が上海が太平天国に攻撃される寸前で援軍を願い出ると、曽国藩は承諾して李鴻章を推薦した。かくして、李鴻章は曽国藩から独立して太平天国と対峙することになった[1]
清の有力武将

上海救援を命じられた李鴻章は軍を揃えるため一旦合肥へ帰郷、団練を元に曽国藩の湘軍に倣って淮軍を組織した。同治元年(1862年)4月、曽国藩の推薦で江蘇巡撫となると、上海から来たイギリス船に乗り長江を渡って上海へ下り、蘇州に拠った李秀成と対峙、現地で結成された外人部隊の常勝軍と連携して5月から6月の上海防衛に功績をあげた。同治2年(1863年)から同治3年(1864年)にかけて攻勢に転じ、降伏した敵軍を吸収しつつ、西洋式軍事訓練も施して「自軍強化」に努め、蘇州・常州を奪回して江蘇省を回復した。

同治3年の湘軍による「南京包囲」には参加しなかったが、太平天国滅亡に大きく貢献した功績が認められ伯爵に叙せられた。また、李鴻章は1860年代以降の洋務運動の推進者の一人であり、戦乱の間、同治2年に江南機器製造総局を創設している。同治12年(1873年)に輪船招商局を設立。他に電報局・開平鉱務局・天津武備学堂などを創設した。

同時期に外国人との揉め事にも関わるようになり、同治2年に上海御用商人の楊坊と常勝軍司令官ヘンリー・バージェヴィンが喧嘩、バージェヴィンが楊坊を殴り太平天国へ寝返る事件が発生すると直ちに楊坊らを解任、上海の利権を手に入れた。同治3年に常勝軍の指揮を執ったチャールズ・ゴードンとも戦後処理を巡って対立、常勝軍解散の遠因を生んだり、西洋艦隊購入にも反対して白紙にすることもあったが(レイ・オズボーン艦隊事件)、それらは軍備強化を行いながら外国の介入を防ぐ綱渡り的処置だった。また、上海が貿易港だったこともあり、一連の出来事で外交手腕を磨く機会に恵まれ、以後の活動に活かされた[2]

太平天国鎮圧後は捻軍鎮圧が焦点になり、同治4年(1865年)のセンゲリンチン戦死後に曽国藩が捻軍迎撃に向かったが、一向に戦果を挙げられない状況を打開すべく同治5年(1866年)に李鴻章に出番を譲った。李鴻章は曽国藩の期待に応え淮軍を動員、同治6年(1867年)に湖広総督に任命され、同治7年(1868年)に完全平定を果たし捻軍鎮圧にも功績を上げた。同治9年(1870年)9月、天津教案で外国の交渉に苦慮する曽国藩の応援として淮軍を率い、交渉を円滑に進める役割を果たし、交渉完了後に曽国藩の後を継ぎ直隷総督に就任した。この時に北洋通商大臣も兼ねたので淮軍はその後、北洋軍閥と呼ばれるようになった。李鴻章のときに北洋大臣が外交を管轄するようになり、外交を統括する機関であった総理各国事務衙門の機能は次第に縮小していった。李鴻章は清朝の重臣筆頭として同治帝の母の西太后の厚い信任を得た[3]
諸外国の外交に奔走


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