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出典検索?: "玄宗" 唐
玄宗 李隆基
唐
第9代皇帝
王朝唐
在位期間先天元年8月3日 - 天宝15載7月12日
(712年9月8日 - 756年8月12日)
都城長安
姓・諱李隆基
諡号至道大聖大明孝皇帝
廟号玄宗
生年垂拱元年8月5日
(685年9月8日)
没年上元2年4月5日
(762年5月3日)
父睿宗
母竇徳妃
后妃王皇后
陵墓泰陵
年号先天 : 712年 - 713年
開元 : 713年 - 741年
天宝 : 742年 - 756年
玄宗(げんそう)は、唐の第9代[1]皇帝。諱は隆基。唐明皇[2]とも呼ばれる。
治世の前半は、太宗の貞観の治を手本とした、開元の治と称えられた善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は政治に倦み楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。 睿宗の三男として洛陽で生まれる。母は徳妃竇氏。隆基には祖母となる武則天が女性皇帝として君臨する武周時代であった。はじめは伯父である皇太子の李弘の猶子となっていた。 705年、20歳のとき、武則天は中宗に禅譲するかたちで帝位を奪われ、武周は一代で消滅し、唐が復活したが、朝廷には隆基の叔母で武則天の娘である太平公主や、武則天の実家である武氏の一族の勢力が残存していた。 中宗の皇后である韋皇后は、武則天をまねて政権を掌握すべく中宗を毒殺した。韋皇后は代わって擁立した殤帝を傀儡とし、自らに禅譲させようと企てていた。 これに対し、隆基の従兄である皇太子李重俊が韋后に対してクーデターを起こしたが失敗した。隆基はこれを教訓とし、太平公主と協力して慎重に韋皇后排除を計画、710年に計画が実行され、韋皇后はじめ韋氏一族やその与党を粛清した。ここで武則天によりいったん廃位されていた睿宗が重祚し、隆基はこのときの功績により皇太子に立てられた。 睿宗が武周以前に在位していたときには、隆基の長兄の李憲(成器)が皇太子に立てられたが、李憲は弟の才能と功績を認めて皇位継承を放棄したため、皇位継承争いは生じなかった。隆基は即位後も兄に対しては常に敬意を払い、臣下に「やりすぎだ」と批判されたほどであった。その死後には皇帝の位を追贈し「譲」と諡した。しかし隆基と太平公主との間には、主導権争いが発生する。これは712年に隆基が睿宗から譲位されたのち、ついに太平公主を殺害して実権を掌握したことで決着を見る。 玄宗の前半の治世は「開元の治」と称され、唐の絶頂期と評価されている。玄宗が行った政策は仏教僧達の度牒の見直し、税制改革、節度使制の導入などである。これらの玄宗初期の政策を玄宗の下で行ったのは武則天に見出された姚崇・宋mの両宰相である。また、対外的にも北方の外敵を征服して、平和を維持し、経済・文化の発展とともに、輝かしい繁栄の時代を作り出した。 天下泰平の中で玄宗は徐々に政治に倦み始める。737年、寵妃武恵妃の死去により、玄宗は新たに寵愛に足る美女を求めた。740年、玄宗の息子寿王の妃となっていた楊玉環が見いだされ、玄宗の寵愛を得てたちまち皇后に次ぐ貴妃の地位に昇った。いわゆる楊貴妃である。玄宗は楊貴妃に溺れ、長恨歌に「これより皇帝は朝早くには朝廷に出てこないようになった」と歌われるごとく、政務への弛緩が目立つようになった。 政務に倦んだ玄宗に代わって政治を運営したのは、宰相李林甫である。李林甫は政治能力は高いが、その性格は悪辣な面があると評され、政敵を策略により次々と失脚させている。 李林甫の死後に実権を掌握したのは、楊貴妃の親族楊国忠と塞外の胡出身の安禄山である。
生涯
武韋の禍
開元の治
楊貴妃と安史の乱『鶺鴒頌』孤本、台北國立故宮博物院