李 陵容(り りょうよう、永和7年(351年)- 隆安4年7月4日[1](400年8月9日))は、中国東晋の簡文帝の側室。孝武帝の生母。 出自は不明であるが、褐色人種とされる。奴隷として織室で働いていた。背が高く、色が黒い。織室の者から「崑崙奴」と呼ばれた。 会稽王時代の簡文帝は、正室の王簡姫との間に司馬道生
生涯
子である孝武帝の即位後、淑妃から夫人、太元12年(387年)に皇太妃となった[3]。太元19年(394年)8月、皇太后となる[4]。
隆安元年(397年)2月、孫の安帝の即位に伴って太皇太后となる。
隆安4年7月壬子(400年8月9日)、建康の含章殿にて50歳で崩じた。文皇太后と諡され、修平陵に葬らせた[5]。
子女
司馬曜(孝武帝)
司馬道子(会稽王)
?陽公主
脚注^ 『晋書』巻10, 安帝紀 隆安四年七月壬子条による。
^ 『晋書』巻32, 孝武文李太后伝
^ 『晋書』巻9, 孝武帝紀 太元十二年四月戊辰条による。
^ 『晋書』巻9, 孝武帝紀 太元十九年八月己巳条による。
^ 『建康実録』巻10, 晋下 隆安四年条による。
伝記資料
『晋書』巻32 列伝第2 后妃下
宣穆張皇后* / 景懐夏侯皇后* / 景献羊皇后* / 文明王皇后* / 武元楊皇后 / 武悼楊皇后 / 恵賈皇后 / 恵羊皇后 / 懐王皇太后* / 懐梁皇后
東晋
元敬虞皇后* / 明穆?皇后 / 成恭杜皇后 / 康献?皇后 / 穆章何皇后 / 哀靖王皇后 / 廃帝孝?皇后 / 簡文宣鄭太后* / 簡文順王皇后* / 孝武文李太后* / 孝武定王皇后 / 安僖王皇后 / 恭思?皇后
*:追封皇后・皇太后