李 遠哲Yuan T. Lee
総統府顧問として公開された公式写真(2016年)
生年月日 (1936-11-19) 1936年11月19日(87歳)
出生地 日本統治下台湾 新竹州新竹市
総統府顧問
在任期間2000年5月20日 - 2001年5月20日2016年11月9日 - 2020年5月19日
総統蔡英文陳水扁
第7-8代 中央研究院長
在任期間1994年1月18日 - 2006年10月18日
元首李登輝
陳水扁
科学者経歴
居住 中華民国(台湾)
アメリカ合衆国
国籍 日本 (1936年 - 1945年)
中華民国 (1945年 - )
アメリカ合衆国 (1974年 - 1994年)
研究分野化学
研究機関シカゴ大学
カリフォルニア大学バークレー校
ハーバード大学
ローレンス・バークレー国立研究所
中央研究院
名古屋大学
沖縄科学技術大学院大学
出身校国立新竹高級中学
国立台湾大学(学士)
国立清華大学(修士)
カリフォルニア大学バークレー校(博士)
博士課程
指導教員ブルース・H・マハン
李 遠哲
職業:学者
各種表記
繁体字:李 遠哲
簡体字:李 ?哲
?音:L? Yu?nzhe
和名表記:り えんてつ
発音転記:リー ユエンチェー
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1986年
受賞部門:ノーベル化学賞
受賞理由:化学反応素過程の動力学的研究
李 遠哲(り えんてつ、1936年〈昭和11年〉11月19日 - )は、台湾の化学者。カリフォルニア大学バークレー校名誉教授、名古屋大学高等研究院名誉院長。ローマ教皇庁科学アカデミー会員。日本学士院名誉会員。学位はPh.D.(カリフォルニア大学バークレー校)。
台湾出身者[1]として初めてノーベル賞(1986年ノーベル化学賞)を受賞した(受賞時はアメリカ国籍も保持)。 特定の物理化学の研究で知られており、特に、交差分子線
概要
日本でも名古屋大学や早稲田大学から名誉博士号を授与されるなど、[2]2007年(平成19年)1月に日本学士院客員に選定されている。
来歴
生い立ち(中国語版)の息子として生まれる。母は幼稚園の園長であった。日本統治時代末期に行われた日本語推進政策の影響で、9歳までは日本語だけを話しており、台湾語は不得意であった[3]。
1943年、新竹公学校(現・新竹国小)に入学。第二次世界大戦の終戦後、中国語と台湾語を学ぶ。高等中学校時代に肺病を患い、この頃にマリ・キュリーの伝記の影響で化学者を志すようになった。 新竹中学(現・国立新竹高級中学)卒業後、推薦により国立台湾大学化学工学科入学。2回生で化学科に編入。化学科の教員であった無機化学者の張昭鼎
大学・大学院時代
その後は新竹に戻り、国立清華大学大学院原子科学研究科放射化学組修士課程に入学。当時同大客員教授であった濱口博の下で北投温泉で採取される北投石の放射性同位体成分の研究を行い、修士号を取得した[4]。 修士号取得後の1962年に渡米し、カリフォルニア大学バークレー校大学院入学。アルカリ原子の光励起
アメリカ時代
ハーバード大学博士研究員を経て、シカゴ大学助教授・教授を歴任した。イオンビーム(英語版)と分子像の装置を開発し、分子線(英語版)の交差衝突(交差分子線)における生成物の角度測定を行い、化学反応の過程を動力学的に研究した。1974年にカリフォルニア大学バークレー校の化学科教授に就任。
化学反応素過程の研究により1986年に、台湾で初のノーベル賞となるノーベル化学賞を受賞した。同年、ピーター・デバイ賞とアメリカ国家科学賞も受賞。
台湾帰国後の活動2004年アジア太平洋経済協力会議にて
1994年にアメリカ国籍を放棄し、台湾に帰国。同年、中華民国中央研究院長に就任し、2006年10月まで務めた。