李術
[Wikipedia|▼Menu]

李 術(り じゅつ、? - 建安6年(201年[1])は、中国後漢末期の人物。本貫豫州汝南郡
経歴

孫策によって駆逐された劉勲の後任として、孫策により廬江太守に任命された。孫策の没後、孫権を侮り独立を宣言したため、孫権は怒り、曹操に李術の揚州刺史の厳象殺害を告発し、彼を助けないよう要請した。李術は皖城に篭って曹操に助けを求めたものの、先に孫権が李術の非を曹操に訴えていたため孤立し、糧食が尽きて落城ののち晒し首となった[2]
脚注^ 許嵩『建康実録』呉上 太祖上 s:zh:建康實?/卷01#太祖上
^  三國志呉書・?主傳 (中国語), 三國志/卷47#孫權, ウィキソースより閲覧。  - 建安四年の項後半に記載された江表伝の抜粋より。《江表傳》曰:初策表用李術爲廬江太守,策亡之後,術不肯事權,而多納其亡叛。權移書求索,術報曰:「有コ見歸,無コ見叛,不應復還。」權大怒,乃以?白曹公曰:「嚴刺史昔爲公所用,又是州舉將,而李術兇惡,輕犯漢制,殘害州司,肆其無道,宜速誅滅,以懲醜類。今欲討之,進爲國朝掃除鯨鯢,退爲舉將報塞怨仇,此天下達義,夙夜所甘心。術必懼誅,復詭説求救。明公所居,阿衡之任,海?所瞻,原敕執事,勿復聽受。」是歳舉兵攻術於皖城。術閉門自守,求救於曹公。曹公不救。糧食乏盡,婦女或丸泥而?之。遂屠其城,梟術首,徙其部曲三萬餘人。〉


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:2501 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef