李舜臣
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この項目では、李氏朝鮮の武将について記述しています。その他の同名の人物については「李舜臣 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

李 舜臣

各種表記
ハングル:???
チョソングル:???
漢字:李 舜臣
発音:イ・スンシン
日本語読み:り しゅんしん
英語:Lee Sun-sin
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李 舜臣(り しゅんしん、イ・スンシン、???(南)/???(北)[1]1545年4月28日明暦:嘉靖24年3月8日〉- 1598年12月16日〈明暦:万暦26年11月19日〉[2])は、李氏朝鮮将軍は汝諧(じょかい、ヨヘ、??)。文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて日本軍と戦い活躍し、韓国では「救国の英雄」とされている。朝鮮内の党争[注釈 1]の影響で李の対立側である元均らの勢力によって、懲罰を受けて兵卒に落とされ一時失脚していたが、軍を率いていた元均が戦死したことで危機感を覚えた朝鮮王によって復権して日本軍と戦ったが、露梁海戦で敗死した[3]。死後に贈られたは忠武公(???)。
生涯
生い立ち

本貫は徳水李氏。京畿道開豊郡の出身で、漢陽(別名:漢城、現:ソウル特別市)の乾川洞(現:中区乙支路)に生まれた。父は李貞。4人兄弟の三男で、兄弟の名前は上から順に羲臣、堯臣、舜臣、禹臣。彼ら兄弟の名前は中国の伝説上の帝王である伏羲などの一字を取って名付けられた。子は李薈、李?、李?、李栫A李?ら。

後に、朝鮮の領議政(現在の首相に相当)となる3歳年上の柳成龍も同地で生まれており、李舜臣とは幼馴染の仲にあった。

舜臣は幼い時から勇猛果敢な性格だったとされ、22歳から武科の試験(科挙)を受け始めたが、初の試験では落馬し、合格したのは1576年、32歳のときであった。舜臣の母の実家がある忠清南道牙山市には舜臣の功績を称える「顕忠祠」があるが、そこに展示されている資料には、舜臣が武科に「丙科四位合格」(総合格者29人で12位。現職軍官ではない合格者の中では2番目)したとある。

舜臣は下士官として女真と国境を接している咸鏡道を転戦したが、上司であった李鎰との不和により、罷免され、白衣従軍[注釈 2]を命ぜられた。その後、彼の才能や不運をおしく見ていた全羅道観察使(現在の道知事に相当)であった李洸の推薦により軍官(士官)に抜擢されて、全羅道の各地で軍官を勤めた。1589年1月、備辺司(現在の国防部に相当)より軍官を不次採用(推薦採用)の公告が出て、当時、左議政李山海の推薦を受け、李慶禄など共に全羅道の井邑の県監になった。慶禄と舜臣は、後の日本の朝鮮侵略時に共に活躍した。しかし皮肉にも、山海は柳成龍の政敵であった。自分が官職に推薦した舜臣が柳成龍と親交が深いことを知って、山海は舜臣と距離を置くようになった。

舜臣は、しばしば幼馴染みの柳成龍によって不遇を救われたが、文禄の役の前年である1591年に、柳成龍の推薦により全羅左道水軍節度使(略称: 全羅左水使)に大抜擢された。この頃、柳成龍は右議政(現在の副首相に相当)の地位に出世していた。だが功績が少なかった舜臣の大抜擢は、当時既に女真との紛争で功績を残していた元均など諸将から激しい反感を買うことにもなった。
文禄の役

1592年4月12日、豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄の役)が始まると、慶尚道水軍は壊滅したが、李舜臣と李億祺は全羅道水軍を温存して、初めは元均(慶尚右水使)の救援要請を拒否した[4]。5月になって釜山西方の日本水軍支配域に突如進入し、巨済島東岸に停泊していた藤堂高虎堀内氏善らの中規模の日本船団を襲撃。帰途も遭遇した日本船を二度に渡って攻撃して、戦果をあげてすばやく撤収した[4]。詳細は「玉浦海戦」を参照

攻勢主力を釜山から漢城のラインを軸に、平壌咸鏡道などに展開していた日本軍は、釜山西方の朝鮮南岸で李舜臣の日本船攻撃が活発になると、7月になって脇坂安治(動員定数1500人[5][6][7])、九鬼嘉隆(動員定数1500人[5][6][7])、加藤嘉明(動員定数750人[5][6][7])を各方面から招集し、海上戦闘用の水軍を編成して李舜臣に対抗する事とした。

しかし李舜臣は、囮を使って潮流の激しい海峡に単独行動中の脇坂隊(動員定数1500人)を誘き寄せて、閑山島海戦で撃破した。続いて、脇坂の援護のために安骨浦まで進出して停泊していた加藤・九鬼水軍を襲撃し、戦果を挙げた。この時、日本水軍は大船が36隻、中船が24隻、小船13隻など計73隻が撃破された。この2つの海戦の結果、当初専ら輸送用だった日本水軍の船にも大鉄砲が備付けられ、日本軍は勢力範囲の要所に城砦(倭城や鉄炮塚と呼ばれる砲台)を築いて大筒や大鉄砲を備えて、水陸併進して活動するようになった。この方針転換は有効に機能し、以降の李舜臣による日本側の泊地への攻撃は、釜山浦攻撃、熊川攻撃など、朝鮮水軍は被害を多く出すばかりで成果が上がらなくなり、朝鮮水軍の出撃回数は激減した。特に釜山浦は、文禄の役の開戦直後の日本軍による占領以来、日本の肥前名護屋から壱岐・対馬を経て釜山に至るルートが日本軍の海上交通路になっており、補給物資は一旦釜山に荷揚げされた後、陸路内陸に輸送されていた。云わば釜山は日本軍にとり補給連絡上の根本となる拠点であった。朝鮮水軍の李舜臣は「釜山は賊(日本軍)の根本なり。進んで之を覆せば、賊(日本軍)は必ず據(拠)を失う。[8]」として、朝鮮水軍の総力をあげ釜山奪回を目指したが、日本軍に撃退され[9]、朝鮮水軍は撤退した[10]。これにより釜山は日本軍にとって安泰な場所となり、戦争の終結まで補給連絡上の根本拠点として機能し続けることになる。
休戦期

1593年、これまでの功績を認められた李舜臣は三道水軍統制使という朝鮮南部(慶尚道・全羅道忠清道)の水軍を統べる指揮官に出世した。元均は、今まで部下であった李舜臣の命令を受ける立場になったことが不満で、露骨な悪意をしめすことが多々あり、朝廷に赴任地を変えてもらうように願い出た。李舜臣と元均はお互いに讒言を行うなど不和が深刻になり、朝鮮王朝は元均を陸上部隊へ転属させた。李舜臣は彼の日記の中で、「天地の間に、元均ほど凶悪で常軌を逸した人はいない」と述べている。

李舜臣は休戦交渉期の1594年3月に水軍で巨済島を攻撃(第二次唐項浦海戦)したが、日本軍は海では応戦せず、砲台などを構築した。開戦後に戦争を主導する立場となっていたより、和平交渉の妨害となるとして交戦を禁じられた。また、同年9月から10月には、水陸共同で巨済島の攻略を試みたが、日本側は堅く陣を守り、朝鮮軍の攻勢を退けた(場門浦・永登浦海戦)。李朝の尹?が書いた白湖全書によると、朝鮮王朝内では膠着状態の間に対立があり、李舜臣が海戦での勝利に焦っているとの批判が強まって、元均などの反李舜臣勢力のデマなど中傷が効果を発揮して、朝廷は体察使(監査)の李元翼を送って、李舜臣の査問が行われた。李舜臣は留任となったが、精神的に疲弊した。一方で日本側も朝鮮水軍の襲撃により巨済島に兵糧が届かず、このことを懸念する旨を島津義弘が書状に記している[11]

この後も戦線は膠着したが、1597年、慶長の役の攻勢準備のために加藤清正が朝鮮へ着到することを小西行長の使者が朝鮮側に漏らしたことから、朝鮮王朝は加藤清正の上陸を狙って攻撃するように朝鮮水軍に命令した。しかし李舜臣は偽情報だと疑った上に、天候と風向きが航海に不向きだったこともあって独断で出撃せず、また、結果論ではあるが、この時すぐに行動を起こしたとしても、タイミング的に加藤清正の上陸阻止には間に合わなかった。その後、2月に李舜臣は釜山砲を攻撃し、多数の死者を出して撤収した[12]。朝廷では、日本軍の上陸を妨害しなかったことを抗命として咎める声が大半となり、李舜臣は更迭され、拷問を受けて一旦は死罪を宣告されたが、鄭琢の取りなしで助命され、再び一兵卒として白衣従軍[注釈 2]を命じられた[13]
慶長の役

1597年、李舜臣の後任の水軍統制使・元均が水軍単独での攻撃命令を嫌がりながらも遂行したが、漆川梁海戦(巨済島の海戦)で大敗。


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