この項目では、中国北朝の人物について説明しています。唐の順宗の皇子については「李綸 (唐)
」をご覧ください。李 綸(り りん、535年 - 574年)は、中国の西魏・北周の官人。字は?羅。本貫は遼東郡襄平県[1]。
李弼の子として生まれた。はじめ安寧県開国侯に封ぜられた。司門下大夫に任ぜられ、小吏部下大夫に転じた。車騎大将軍・開府儀同三司・工部・納言・司会・治計部・司宗となった。河陽郡開国公に進んだ。北斉に対する使者をつとめている。574年12月16日、私邸で死去した。使持節・洛鳳興三州諸軍事・洛鳳興三州刺史・驃騎大将軍の位を追贈された。
子の李長雅[2]が後を嗣いで河陽郡公となり、楊堅の娘の襄国公主を妻とした。
脚注^ 墓誌によると、涼城郡泉鴻県の人。
^ 墓誌によると、李綸の妻は広業郡君宇文氏。世子は李元。子に李善・李敦・李礼がいた。
伝記資料
『周書』巻十五 列伝第七
『北史』巻六十 列伝第四十八
周故河陽公徒何墓誌(徒何綸墓誌)