李範?
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「李範ソク」はこの項目へ転送されています。同音の「李範錫」とは別人です。

李範?

各種表記
ハングル:???
漢字:李範?
発音:イ・ボムソク
日本語読み:り・はんせき
ローマ字:Yi Boem-seok
テンプレートを表示

李 範?(イ・ボムソク、???、1900年10月20日 - 1972年5月11日[1])は、大韓民国政治家独立運動家である。本貫全州李氏広平大君の17世孫に当たる[1]。号は鉄騏(チョルギ、??)。別名は王雲山、李国根。李承晩政権下では、初代国務総理、初代国防部長官を務めた。

父は大韓帝国の正三品官僚、日本統治時代初期に伊川郡守を務めた李文夏(朝鮮語版)[1][2]、1925年に結婚した妻は高麗人の独立運動家の金瑪利亜(朝鮮語版)[1][3]大韓民国臨時政府の要人で後に朝鮮日報社長を務めた申錫雨(朝鮮語版)は姉の夫[1]
来歴国務総理として演説する李。右後方に李承晩が座っている。

1900年ソウルの龍洞(現・明洞[1]または忠清南道天安生まれ。京城高等普通学校卒業後、呂運亨の手引きで中国へ亡命し、雲南講武堂騎兵科第12期生となった。

三・一独立運動の熱気の中、抗日独立運動を志し、南満州にあった私塾・新興武官学校の教官となった。徐一金佐鎮の北路軍政署に所属し、青山里戦闘では金佐鎮のもと韓国独立軍の一隊で活躍したとされている。1922年から1925年までソビエト連邦の沿海州で高麗革命軍合同民族連隊の指揮官となるも、自由市惨変日ソ基本条約、ロシア人妻の自殺でソ連に幻滅して1926年トムスクを脱出してからは満州で中国軍に勤務する。

満州事変後に東北抗日義勇軍で活動。蘇炳文軍の秘書兼高級参謀、馬占山軍の作戦科長を務めた。1934年、部隊が壊滅したため、ソ連へ再び逃亡。その後、中国軍事考察団の一員としてヨーロッパ各国を視察した後、中国に帰還した。1934年、中央陸軍軍官学校洛陽分校特別班学生隊長。

日中戦争においては、国民革命軍に参加。第3路軍高級参謀(少将)、第3集団軍第55軍参謀処長、中央訓練団(中国語版)中隊長を歴任。

1940年韓国光復軍参謀長。1942年、韓国光復軍第2支隊長を兼務。1945年2月以降は、米軍の戦略情報局(OSS)が朝鮮人隊員に情報・通信訓練を実施し、諜報員として朝鮮本土の重要拠点に侵入させるイーグル・プロジェクト(Eagle Project)を統率し、1945年8月10日には出撃を待機させたが[4]、突如として、日本のポツダム宣言受諾の報に触れることとなり、光復軍も作戦変更を余儀なくされた。8月18日、韓国光復軍挺進軍総司令として米軍輸送機C-47で西安飛行場を離陸し、汝矣島滑走路に着陸、降伏した日本軍に対して一定の指示を与えた後、8月20日に帰還した[5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:23 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef