李白
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李白
李白肖像
誕生701年5月19日
諸説あり。武周綿州昌隆県青蓮郷(現・中華人民共和国四川省綿陽市江油市青蓮鎮)、または武周安西都護府碎葉城(現・キルギス共和国チュイ州トクマク市)
死没762年10月22日(61歳没)
宣州当塗県(現・中華人民共和国安徽省馬鞍山市当塗県
墓地安徽省馬鞍山市当塗県・李白墓
職業詩人
言語中国語
国籍
ジャンル
代表作李太白文集
配偶者許氏、劉氏、東魯の某氏、宗氏
ウィキポータル 文学
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李白
各種表記
繁体字:李白
簡体字:李白
?音:L? Bai
ラテン字:Li3 Pai2
和名表記:り はく
発音転記:リー・バイ
英語名:Li Bai
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李 白(り はく、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: L? Bai、701年長安元年) - 762年10月22日宝応元年9月30日))は、中国盛唐の時代の詩人である。は太白(たいはく)。は青蓮居士[注釈 1]。唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩風から、後世に『詩仙』と称される。
出自

李白の出自および出身地には諸説あり、詳細は不明である。『旧唐書』本伝の記述では東魯の出身とするが、の王gなどをはじめ、通説はこれを誤りとする。

李陽冰の「草堂集序」および范伝正の「唐左拾遺翰林学士 李公新墓碑」、さらにこれらを踏まえたとされる北宋欧陽脩新唐書』などの記述では、李白は隴西郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)の人で、西涼の太祖武昭王李ロの九世孫とする。李白の先祖は、末の時代、何らかの事情で西域東トルキスタンのあたりに追放され、姓を変えてその地で暮らしていたが、中宗神龍年間、西域から(現在の四川省)に移住し、李白の誕生とともに李姓に復したという[2]

李白の祖先の暮らしていた西域の地について、「草堂集序」には「中葉罪に非ずして、條支に謫居す」、『新唐書』では「罪を以て西域に徙(うつ)る」とある。「條支」とはこの場合、唐代に置かれた条支都督府を指すと考えられており、現代の地名ではアフガニスタンガズニ周辺に当たる。また「唐左拾遺翰林学士 李公新墓碑」では碎葉(現・キルギス共和国トクマク付近)としている[3]。こうしたことから、20世紀になると、胡懷?(中国語版)[4][5]陳寅恪[6]、劉學銚(中国文化大学[7]などが李白を西域の非漢人の出自とする新説を出した。

現在の中国における通説では、李白は西域に移住した漢人の家に生まれ、幼少の頃、裕福な商人であった父について、西域から蜀の綿州昌隆県青蓮郷(現在の四川省綿陽市江油市青蓮鎮)に移住したと推測する。

いずれにしても、遅くとも5歳の頃には蜀の地に住み着いていたと考えられている。
生涯南宋の画家梁楷の墨筆画「李白吟行図(東京国立博物館蔵)」。
幼少から青年期

「草堂集序」「新墓碑」『新唐書』などが伝えるところによると、李白の生母は太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ、名前と字はそれにちなんで名付けられたとされる[8]。5歳頃から20年ほどの青少年期、蜀の青蓮郷を中心に活動した。伝記や自身が書いた文章などによると、この間、読書に励むとともに、剣術を好み、任侠の徒と交際したとある。この頃の逸話として、益州長史の蘇?にその文才を認められたこと、東巌子という隠者と一緒に岷山に隠棲し、蜀の鳥を飼育し共に過ごしながら道士の修行をし、山中の鳥も李白を恐れず手から餌をついばんだこと、峨眉山など蜀の名勝を渡り歩いたことなどが伝わる[9]
放浪

725年開元13年)、25歳の頃、李白は蜀の地を離れ、長江を下り江南へと向かった。以後李白は10数年の間、長江中下流域を中心に中国各地を放浪する。自然詩人孟浩然との交遊はこの時期とされ、名作「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」が作られている[注釈 2]。その後安陸(現在の湖北省安陸市)に拠点を定め、ここを中心に各地への放浪を続けた。やがて、安陸の名家で、高宗宰相であった許圉師の孫娘と結婚する。この結婚の年代については諸説あるが、732年、32歳の時には確実に結婚していたとされる。許氏との間には長女李平陽と長男李伯禽という2人の子が生まれている[10]。結婚後も安陸を拠点に各地の放浪を続けており、730年あるいは737年の頃には、長安に滞在して仕官を求めたというのが近年の研究から通説となっている。またこのころ洛陽も訪れており、735年から736年にかけては太原から雁門関を周遊した[11]740年には安陸から東魯(山東省南部)へと移り住んだ。ここでは孔巣父ら5人の道士と徂徠山(現在の山東省泰安市)に集まり、「竹渓六逸」と呼ばれることもあった[12]
朝廷に仕える

742年天宝元年)の秋、友人元丹丘の尽力により、玄宗の妹で女道士となった玉真公主(持盈法師)の推薦を得て長安に上京した[注釈 3]。玄宗への謁見を待つため紫極宮(老子廟)に滞在していた折り、当時の詩壇の長老である賀知章の来訪を受け、この時彼から名高い「謫仙人」の評価を得ている[14]。このように宮廷で有力な影響力を持つ2人の推薦を得て、同年の冬、李白は宮廷の翰林院に入り玄宗に仕えることになる。以後の3年間、李白は朝廷で詩歌を作り続けた。詔勅の起草に当たったと書かれることもあるが、実際には政治に関わることはなかったと考えられている[15]。この時期、楊貴妃の美しさを牡丹の花にたとえた「清平調詞」三首などの作品が作られ、宮廷文人として大いに活躍している。また賀知章ら多くの文人と交友を深め、阿倍仲麻呂(晁衡)と知り合ったのもこの頃のことと推測されている[16]。しかし、抜群の才能を発揮する一方で、杜甫が「李白一斗 詩百篇、長安市上 酒家に眠る。天子呼び来たれども 船に上らず、自ら称す 臣は是れ 酒中の仙と」(「飲中八仙歌」)と詠うように、礼法を無視した放埒な言動を続けたことから宮廷人との摩擦を引き起こし、744年、宮廷を去って長安を離れることとなった[17]


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